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ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

このブログについて

 当ブログでは宮崎県の中部にある田舎町、都農町に関連する事柄についてを記事を書いていきます。記事の中心は民俗的あるいは歴史的なものとなりますが、都農町の魅力についてもPRできたらと思います。

 ちなみに当ブログの名前になっている「ひょうすんぼ」とは、カッパのことです。都農のあたりではカッパの伝承がいくつかあり、河童塚という塚もあります。いつか「ひょうすんぼ」についての記事も書けたらと思います。

 

 なお私は都内在住の大学生であり、都農についての細かい質問についてはお答え出来ないかもしれません。ご容赦ください。

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みやざきコンスマガイド -都農町-

 

都農町観光協会

都農の方に聞きたいこと

都農

 都農の方に聞きたいことをまとめてみました。

 このブログを都農町民の方が見てくださっているのかはわかりませんが、もし見てくださっている方がいて、以下のことについて何か知っていることがあるのであれば、教えていただけると嬉しいです。

 

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備忘録

歴史・民俗

 色々お話しを伺うことが出来たので、それについての備忘録です。

 

1.都農の夏祭りについて

 2階から御輿を見下ろすのは失礼とされた。

 昔は朝浜まで塩を採りに行き水を撒いていたそうだが、なくなってしまった。

 都農の祭りの見どころである御輿のぶつけけ合いは、神社に入るのを嫌がる御輿を押し入れるためだという話しが伝わっているそうだ

 

2.移住者について

 柳田国男の「九州南部地方の民風」において児湯地域が紹介され、この地には伊予からの移住者が多いと書かれていた。(詳しくは以前書いた記事を参照)都農では三日月原に移住者が多く、土佐からがほとんどだという。商家が多かったそうだ。

 

3.椎葉の話し

 椎葉では柳田が実際には椎葉に来ていないという噂があるそうだ。訪れていないことはないと思うので、「後狩詞記」の実質的な著者が柳田ではないという話しが変形して伝わったのだと思われる。

 

4.去飛の駅

 福原尾に去飛の駅の井戸があると伝わっているという。去飛の駅は場所が確定していないが都農だろうと推定されている。その伝承が本当なら去飛の駅の位置が確定するが、地理的に考えても位置は都農神社のあたりだと思われるので、作られた伝承であろう。

 写真はその井戸。

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5.何故名貫川以南の一部が都農町に含まれるのか

 川南と川北という名は名貫川を境にしての南北が由来となっているのだが、名貫川以南の一部も都農町(川北)に含まれている。これはなぜか。私は川を境としつつもすぐ近くの丘が実質的な境になっているからだと考えていたが、参勤交代が理由となっているそうだ。参勤交代の際に今日はどこに泊まるかを報告するのだが、先に都農と報告したにもかかわらず都農まで辿り着かない場合が多々有り、それをごまかすために名貫川以南の一部を都農に含んだという。

網野善彦について

歴史・民俗

 網野善彦の研究領域はもし分類するならば、歴史学となるであろうが、民俗学にもかなり近い。民俗学的な研究が歴史学に反映されたかたちとして興味深い。

 民俗学についての記述が多いのは以下の「宮本常一『忘れられた日本人』を読む」であろう。非常民に注目して研究を続けた民俗学者宮本常一についての回想録を交えつつ、記述がなされている。

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 著作として一番有名なのは以下の「無縁・公界・楽」になるだろう。ただ日本史について細かい知識(受験レベルでもギリギリ読める)が必要なので、いきなり読むのはおすすめ出来ない。

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 読みやすいのは「日本の歴史をよみなおす」であろう。高校生のときの私でも難なく読めた。

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 都農の家はネット回線がないので、次の更新まで一週間以上の期間が開くかもしれません。すみません。

「山民」と「山人」の混同

歴史・民俗

 柳田国男はいくつかの著作で「山民」と「山人」という言葉を用いていますが、この両者を混同してしまったかたは多いのではないでしょうか。私も最初に読んだ時は混同してしまい、柄谷行人さんの「遊動論」を読んで両者の違いに気付きました。

 今回は「山民」とは何なのかを柳田の著作を引きながら明らかにして行きます。

 理解を助けるために最初に端的に述べておくと、「山人」は存在するかどうかわからない日本の先住民(縄文人)であり、「山民」は現実に日本の山に住んでいる人たちです。

 

 1.九州南部地方の民風について

 学問上注意すべきこととして報告をしたいのは、山民の土地保有に関する思想でありまして、我々の書物によって学んだところとはなはだ相似て居ります。現行民法上の土地に関する規定は、今や吾々日本人の常識となって居りますが、我が国固有の思想少なくも中世までの思想とは大いなる懸隔のあるものであることは証明するに難くないのであります。右の山村においては、土地の保有は、決して個人所有を原則とは致して居りませぬ。一定の人が宅地及び田畠として利用する期間に、もちろん排他的の支配権を認めますが、その以外の土地は共有であります。

 これらの山林には土地に関する慣習以外にも、古代思想の残存せる点が少なくありません。

 

「山民」は土地保有に関して「協同自助」の思想を有している。そしてその思想は中世までの思想と隔たった古代の思想である。

 

 彼らは山麓の平地から運賃とも一升弐拾銭で容易に米を得るの道があるにもかかわらず、水田の築造をするのであります。その収穫は明らかにこれがために費やす労力資本を償わないのです。彼らもこれを知らないのではない、知って居ってもなおかつこれを敢えてするのである。その理由は抑も何にあるのか、恐らくは米食の習慣の増進、自作米を食うという農民の誇りに感染したのもその原因の一部でありましょう。

 

 この文章で注意したいのは、農民の誇りに感染したという語を用いていることである。「山民」があたかも農民ではないというような言い方をしている。

 

 要するに古き純日本の思想を有する人民は、次第に平地人のために山中に追い込まれて、日本の旧思想は今日平地においてはもはやほとんどこれを窺い知ることが出来なくなって居ります。従って山地人民の思想性情を観察しなければ、国民性というものを十分に知得することが出来まいと思います。日本では、古代においても、中世においても、武士は山地に住んで平地を制御したのであります。古代には九州の山中にすこぶる獰悪の人種が住んで居りました。歴史を見ると肥前基肄郡、豊後の大野郡、肥後の菊池郡というような地方に、山地を囲んで所々に城がありまするのは、皆この山地の蛮民に対して備えたる隘勇線であります。蛮民大敗北の後移住して来た豪族も、また概ね山中に住んで居りました。後年武士が平地に下り住むようになってからは、山地に残れる人民は、次第にその勢力を失い、平地人の圧迫を感ぜずには居られなかったのであります。いわば米食人種、水田人種が、粟食人種、焼畑人種を馬鹿にする形であります。この点については深く弱者たる山民に同情を表します。

 

 山地に残れる人民(「山民」)はかつて武士や豪族であったものである。ただし稲作ではなく粟の栽培や焼畑により暮らしていたものとされる。そして米食人種、焼畑人種という言葉を用いてあたかも人種の違いがあるような記述をしている。

 これが「山民」=山人というような理解を招く要因となっていると思われる。柳田自身は『九州南部地方の民風について』執筆時において、「山民」を我々と同一人種としながらも、古代の思想を引き継ぐという点や焼畑を行うという点で我々と異なる存在として認識していたのではないか。それが上記のようなわかりづらい記述に繋がり誤解を生むことに繋がっているのではないかと思われる。

 

 2.山民生活

 いやしくも谷川の流れがあれば、これを遡って奥へ奥へと開いて往って、新しい学問で海抜何千尺というような高地に、いつとなく寒い生活を始めております。

 

 しからばその新参の我々の祖先が生活の痕跡はいずれの点に求めるかと申しますと、自分はそれは稲の栽培耕作だと答えたいのであります。これも一種の仮定説で他日反証が出ぬとも限りませんが、今はまずその仮定の下に山民の生活の他の方面を説明してみようと思います。

(中略)

 我々の祖先の植民力は非常に強盛でありましたがそれにも明白に一つの制限がありました。いかなる山腹にも住む気はある。食物としては粟でも稗でも食うが、ただ神を祭るには是非とも米がなくてはならぬ。

 

 『山民の生活』おいて「山民」は我々の祖先と同一であり、習慣の隔たりを意識していない。また稲を作る理由も改められ、「山民」は稲作をするとしている。ここでは「山民」はただ山に住むだけで、我々と同じ存在として捉えられている。

 

 

問題意識

歴史・民俗

 自分の中の問題意識の一つとして格差というものがあります。共産主義的な思想を持っているからでも、搾取だなんだと喚き散らしたいからでもなく、ただ単に中産階級の減少による社会の不安定化を危惧しているだけです。

 そういう背景で注目したのが「協同自助」の思想なのであり、だからこそ何度も記事を書いているわけなのですが、また書きます。

※例のごとく試論です。

 

 「協同自助」の思想は山村特有のものなのかという疑念をずっと抱いていました。そしてその疑念はNHKの新日本風土記で伊根という町に「同等一栄」という思想があるということを知ってより強まりました。「協同自助」の思想のようなものは山村特有のものではなく、本来はどこでも見受けられるものではないかと。

 何の確証もないのですが、「協同自助」の思想というのは自生的秩序ではないのかと思うのです。三代続く長者はいないというような民話やことわざがあったりするように(都農にもあります)、ある代で富んだ家系がその後も富み続けられる保証などはどこにもないわけです。ある家の当主は自分の後の代の能力や状況について把握することは出来ません。その意味でロールズの言うところの「原初状態」に近い状態にあるわけです。もちろん現状の貧富の差はあるわけで、完全に一緒なわけではないのですが、家の存続というものを考えた時に、ロールズの言うところの「原初状態」の場合と同じようにリスクが少なくなるように「正義の選択」をすると言えないでしょうか。

 そういった選択は都市社会ではなされないでしょう。何故なら「正義の選択」は後の代まで考えた場合に初めてなされるもので、長期的かつ緊密な関係が不可欠になります。ロバート・エリクソンがアメリカの牧場を観察して明らかにしたように、長期的かつ継続的で情報が共有されやすい社会では独自の秩序が生まれやすいわけです。そしてそういった社会は都市のように流動的なものではなく、農村のような人の出入りが少ないものでしょう。山村は平地の農村に比べてより閉鎖的で、明治維新後の社会の急速な流動化の影響を受けづらかったために柳田国男が観察出来たのではないのかと思うわけです。

 

 

 柄谷行人さんは「協同自助」の思想の背景には「遊動性」があると述べていましたが、真逆の「固定性」が背景にあるわけです。

 最初に自生的秩序という言葉を用いたのはハイエクを少し念頭に置いているからで、自生的秩序たる「協同自助」の思想を私がどうにかして普及させるというようなことは出来ないでしょう。

 

 ロールズの議論を無理矢理もってきたり(そもそもロールズに対する批判も多い)、実証的な裏付けがなかったりと穴だらけな試論なのですが、備忘録として書き留めておきます。

 

 

都農でしたいこと

都農

 来月の半ばに都農でしたいことを書き出しておきたいと思います。半分メモ代わりです。したいことが増え次第追記します。

 

・都農牧神社訪問

 都農牧神社の岩山が都農神社の御神体であったのではないかと考えているので、訪れて確認してみたい。

 

・尾鈴神社訪問

 尾鈴山信仰のあり方を確認しに行きたい。

 

・木戸平神社の捜索

 町史にはあると書いてあるが、どこにあるのかわからないので探しに行きたい。都農にいる間はいつもばたばたしてしまっているので、今回はのんびり散歩なり、自転車でぶらぶらなりしてみたいと思う。

 

・ブログのトップに載せている都農の方に聞きたいことの調査

 調査と行ってもあてがないので、親や親戚に頼んでみようと思う。また都農図書館に都農の資料があるということなので、行ってみたいと思う。(たぶん2階かな?昔行ってそれらしきものを見かけた記憶がある。)

 

あとは通ったことしかない西米良にも行ってみたいなと思う。城巡りで都於郡城、佐土原城飫肥城にも行ってみようかな。