ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

このブログについて

 当ブログでは宮崎県の中部にある田舎町、都農町に関連する事柄についてを記事を書いていきます。記事の中心は民俗的あるいは歴史的なものとなりますが、都農町の魅力についてもPRできたらと思います。

 ちなみに当ブログの名前になっている「ひょうすんぼ」とは、カッパのことです。都農のあたりではカッパの伝承がいくつかあり、河童塚という塚もあります。記事としてまとめたので、興味のあるかたは読んでいただけるとうれしいです。

ひょうすんぼについて - ひょうすんぼ

 

 なお私は都内在住の大学生であり、都農についての細かい質問についてはお答え出来ないかもしれません。ご容赦ください。

 更新は二週に一度土曜日となっています。

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みやざきコンスマガイド -都農町-

 

都農町観光協会

目次

年末ということで整理も兼ねて目次を作成しました。

古い記事は後に考えを改めることが多いので、目次にある記事を中心に参照してください。

 

・都農の地名についての考察

都農と津野① - ひょうすんぼ

都農と津野② - ひょうすんぼ

都農と津野③※補足 - ひょうすんぼ

都農と津野④ 問題点 - ひょうすんぼ

 

・尾鈴山についての広範な考察

尾鈴山について 再考①尾鈴山と都農神社 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考②信仰の起源 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考③尾鈴山と饒速日命 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考④ 尾鈴山の呼称 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

 

・都農に多い三輪氏についての考察

三輪氏について - ひょうすんぼ

 

・都農神社が一宮であることについての考察

何故都農神社が一宮なのか① - ひょうすんぼ

何故都農神社が一宮なのか② - ひょうすんぼ

 

柳田国男が宮崎を訪れた際に書いた著作に対する批判

「九州南部地方の民風」について - ひょうすんぼ

 

・ブログのタイトルにもなっているひょうすんぼについてまとめたもの

ひょうすんぼについて - ひょうすんぼ

 

・都農の歴史を調べるにあたっての課題

都農の歴史を調べるにあたっての課題 - ひょうすんぼ

都農と西郷隆盛

 西南戦争の直接の舞台になったわけではないが、都農も西郷隆盛と関わりがある。大河ドラマ西郷どん」が放送されているうちに書こうと思っていたのだが、後回しにしているうちに終わってしまった。

 1877年2月に西南戦争が勃発すると、地理的歴史的にも薩摩藩と関わりが深い現在の宮崎県の大半は、薩摩側に味方した。都農を含む旧高鍋藩は、銃の徴発を受けたものの、旧藩主秋月氏の呼びかけもあって参戦をしぶっていた。しかし孤立すること恐れて出兵し、3月ちょうど田原坂の戦いの最中に着陣した。

 田原坂の戦いでの敗戦以降余裕のなくなった薩摩の徴発は厳しくなり、金銭や金属、労働、コメなどを徴発され、都農神社の屋根も剥がすほどであった。また寡兵も行われ、都農からも20、30名薩摩側で参戦することとなった。

 7月29日には西郷隆盛が都農を訪れ、現在の桝屋(現在の報恩寺)に宿泊した。※見学は出来ません。

 8月に入ると都農は政府側が占拠し、耳川を挟んで薩軍と対峙した。都農には第三旅団が着陣している。

  戦死者はいなかったものの、収穫期とも重なったためこの一連の戦争で都農は荒廃したという。

 

金丸家と都農参り

 金丸家は修験の家系で同家に残る「日下部姓金丸系図」によると、古代日向の代表的豪族日下部氏にゆかりのある家柄である。日下部氏は日向中部を治め代々妻万神(都万神社)に仕えた。日下部氏は仁徳天皇の皇子、大日下王と若日下王のために設けられた御名代部から発したと伝え、2皇子の母は日向の諸県君牛諸井の娘、髪長媛といわれている。日下部氏は法元・湯浅・金丸・岩切・吉野・杉尾・郡司など18家に分かれ、古代から国府や郡司などの任に当たるものや妻万宮の神職をはじめ、宮崎平野に鎮座する諸神社の神職を務める家が多いといわれる。

宮崎みんなのポータルサイト miten 宮崎の情報満載 - mitenコラム

 このコラムでは、金丸家が取り上げられている。金丸家が日下部家につながる家系であることを考えると、都農神社の神職を金丸家が務めていたことも頷ける。

 

 高鍋藩は霧島参詣を禁じ、代わりに都農神社と尾鈴神社の参詣は「勝手次第」とし、領内神社参詣を奨めている。しかし、領民は行かなかったと思われる。何故なら信仰心に伴う参詣というより、自国領外、知らない土地に行き見たことない珍しい物を見たり食べたことのない物を食べたりする、いわゆる物見遊山が主目的であったからである。

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 以前同様の記事を書いたが、その記事で私は都農参りへの方針転換は成功したと推測していた。しかし伊勢参りなどの参詣が信仰心というよりは、物見遊山の口実であることを考えていなかった。そのことを考えると、このコラムのように都農参りへの方針転換はうまく行かなかったのかもしれない。

都農参り - ひょうすんぼ

高鍋藩における修験道と雨乞い

 宮崎みんなのポータルというサイトのコラムに面白い記述があったので、取り上げたい。

 高鍋藩では臨済宗を藩の宗教とし、密教を守護宗として保護が加えられ、その信仰もあつかった。そのため数多くの寺院の建立があり、その大部分は禅と密であった。
 この時期、高鍋藩内では尾鈴山を信仰の対象として修行の場とする修験が盛んで、藩内には松尾山地福寺を本寺として、鈴峰山飯長寺(松本)、蓬莱山興福寺(高城村)、朝倉山龍岸寺(城内脇村)、甘漬山観音寺(川南村)、角養山大泉寺(都農山下)、山号不明長福寺(美々津)など14か寺の修験宗寺院があった。

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 密教修験道と密接な関係をもっていたため、高鍋藩が守護宗としていたならば、修験道の場として尾鈴山が重要視されたことが伺われる。

 また上記記述によれば、藩内における修験道の本寺は松尾山地福寺におかれていたという。高鍋城内におかれていたこの寺は現在は廃寺となってしまったようだ。

 そのため尾鈴山修験道が都農神社を中心としていたとする、私の考えを改めなければならない。

 

 

 祈祷指示は円実院と日光院が最も多く、次が尾鈴神社(尾鈴大明神)と比木神社(比木大明神)そして都農神社(都農大明神)であった。

(中略)

 高鍋藩では元禄6年(1693)から安政元年(1854)までの161年間に祈雨・祈晴を306回行っている。雨乞い祈祷は2夜3日に及び家老またはそれに次ぐ上役が参加している。

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 尾鈴山では雨乞いの祈祷が何度も行われているがわかるが、その中心もやはり都農神社ではなく、円実院(地福寺)であった。

 円実院、日光院ともに現存していないが、比木神社は現在も木城町に鎮座しているので訪れてみたい。

 

永友司日記③

明治三年(一八七一)p101

七月廿一日永友司
左局御承事様
都農一宮神主金丸通治兼治病身( 俗ニ云ヨイヨイ病也) 罷有何分血□相続候様
無之候ニ付、水町和太郎跡相続仕居候ニ男林吉方此節、双方熟談之上呼戻し、
金丸之家血□相続為支度、医師容躰書相添願出候処、願之通り七月廿三日御
免ニ相成ル。尤御用難相勤候間、司方登城承り候。
私孫宗年義両三年以前より足痛罷有未タす切ト平癒不致折ニ相発候故、登坂
之上療治為支度甚願之処、幸此節綾部考之介来ル十日より登坂致候趣ニ付、
随従致療養為支度且又当時皇学修業も相成丈為致度御座候間、早々御免被成
下候様此段奉願候。以上。

 

 上記記述を読む限り、単に和太郎が幼いからという理由のみならず、適齢期の神主がヨイヨイ病(中風)を発症していたことも関係しているのであろう。

 永友司は自身の病もあって、このタイミングで金丸家に都農神社の神主を相続させることを模索している。それは叶ったようだが、国幣社となった都農神社の神職の任官は中央からなされるようになったため、翌年には堀口章介なる人物が都農神社の神主に就くこととなる。

  

 今回は神官の交代というテーマで読んでみたが、明治維新前後の雰囲気を神職という目線から見ることができて面白かった。(ほとんどは仕事上の記録である)

 廃仏毀釈についての情報を得られればと思ったが、それらしき記述は下記を除き、見当たらなかった。1872年までの日記であるため、高鍋藩ではそれ以降に廃物希釈が活発化した可能性があるが、全国的なピークは1868-1871年である。そのため意図的に、あるいは業務と関係ないため記述しなかった可能性がある。

 

明治二年(一八六九)p85

三月十二日是迄寺社与相唱来候得共、以来社寺与相唱候事。
右之通従朝廷被仰出候趣有之候ニ付、前断之通此節御改革ニ相成候間可被其
意候。

 廃物希釈というよりは、神仏分離令の発布について記述されただけである。

 

 都農神社のホームページで大泉寺文書が公開されているので、テーマを決めて読みすすめていきたいです。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/daisenjimonjyo.pdf

永友司日記②

永友司日記① - ひょうすんぼ

 前回からだいぶ時間が空いてしまいましたが、検討を続けます。

  

文久二年( 一八六二) p28ーp32
一一正月廿三日御冬都農金丸肥前死去。倅和太郎酉ノ年十三才、幼少ニ付、後
見之義和太郎親類之者より頼来り御奉行所へも右之趣届差出置候処、左之通
り求人殿より御達有之。
明後廿五日六ツ時、御供揃御乗馬ニ而一ノ宮江被遊御参詣候段被仰出候間、神前
向其外掃除不都合無之様、取斗可被申且被遊御参詣候節者、御幣上候義其方相勤可
被申、尤美々津立岩へも被遊御参詣候ニ付、御出掛類、御帰掛類之所者相分不申候
間、早朝より相詰罷有候而、安政四巳ノ十二月、被遊御参詣候節之通り万端不都合
無之様、取斗可被申候。以上。
(中略)
一同日金丸和太郎方へ遺跡無相違罷□候。尤和太郎并赤木源兵衛両人共ニ病
気ニ付、名代税田正蔵罷出ル。
八幡宮御殿向所々并御供屋損候ニ付、御見分之上御修覆被成下候様奉願候。
(中略)
一二月廿二日都農一宮神主金丸和太郎方幼年ニ付、私方江一躰請持仕候様被
仰付奉畏候、然処遠方掛々之義ニ付、朝夕之神前勤向之義者正祝子石見方江
被仰付候得共、御発駕御下向其他臨時之御参詣、且御祭礼等之節者私方差越
候而相勤可候義ニ御座候哉。又ハ正祝子石見方相勤候而宜御座候哉、此段奉
伺候。以上。
二月廿二日都農社受持永友司
(中略)
一四月廿八日
一檜元木拾五本末ノ口六寸長弐間
一杉元木拾本末ノ口六寸長弐間
右者尾鈴宮破損ニ相成候ニ付此節修覆仕可申候間、右之元木御免被成下候様
奉願候。尤、金丸和太郎幼年ニ付、私方へ一躰請持被仰付候間、尾鈴宮も同
様之義ニ御座候間、私方より奉願候ニ付、何卒御免被成下様奉願候。以上。

 

 都農神社の神主を務めていた金丸通敏は文久元年12月4日に34歳の若さでなくなった。そのあとを継ぐ和太郎が13才と幼年であったため、都農側から申し出があり、家老の命により、永友司が都農神社の神主に就くこととなった。

 なお尾鈴神社の神主も同様の理由により、兼任することとなる。

 

萬延元年( 一八六〇) p19

八月十五日晴。
都農金丸肥前母忌中ニ付、此方へ頼来り候間長照寺へ名代相頼候処、長照寺
より色々六ケ敷義申出候間、以来都農正祝子名代相勤候様都農へ申遣筈 

 

 永友司は城下の神社の神主と性格上、頻繁に藩とやりとりをしており、藩からの信頼も厚かったのであろう。また都農神社との関係性を伺わせる記述は少ないが、上記の記述から頼りにされていたことが伺える。そういった理由で永友司に都農神社の神主を務める依頼がきたのであろう。

 ③に続きます。