ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

このブログについて

 当ブログでは宮崎県の中部にある田舎町、都農町に関連する事柄についてを記事を書いていきます。記事の中心は民俗的あるいは歴史的なものとなりますが、都農町の魅力についてもPRできたらと思います。

 ちなみに当ブログの名前になっている「ひょうすんぼ」とは、カッパのことです。都農のあたりではカッパの伝承がいくつかあり、河童塚という塚もあります。記事としてまとめたので、興味のあるかたは読んでいただけるとうれしいです。

ひょうすんぼについて - ひょうすんぼ

 

 なお私は都内在住の大学生であり、都農についての細かい質問についてはお答え出来ないかもしれません。ご容赦ください。

 更新は不定期となっております。

 ブログ全体へのコメントや個人的な情報提供などは以下のフォームからお願いします。

お問い合わせ - ひょうすんぼ

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みやざきコンスマガイド -都農町-

 

都農町観光協会

目次

年末ということで整理も兼ねて目次を作成しました。

古い記事は後に考えを改めることが多いので、目次にある記事を中心に参照してください。

 

・都農の地名についての考察

都農と津野① - ひょうすんぼ

都農と津野② - ひょうすんぼ

都農と津野③※補足 - ひょうすんぼ

都農と津野④ 問題点 - ひょうすんぼ

 

・尾鈴山についての広範な考察

尾鈴山について 再考①尾鈴山と都農神社 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考②信仰の起源 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考③尾鈴山と饒速日命 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考④ 尾鈴山の呼称 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

 

・都農に多い三輪氏についての考察

三輪氏について - ひょうすんぼ

 

・都農神社が一宮であることについての考察

何故都農神社が一宮なのか① - ひょうすんぼ

何故都農神社が一宮なのか② - ひょうすんぼ

 

柳田国男が宮崎を訪れた際に書いた著作に対する批判

「九州南部地方の民風」について - ひょうすんぼ

 

・ブログのタイトルにもなっているひょうすんぼについてまとめたもの

ひょうすんぼについて - ひょうすんぼ

 

・都農の歴史を調べるにあたっての課題

都農の歴史を調べるにあたっての課題 - ひょうすんぼ

比木神社・宗麟原供養塔

1、比木神社

 比木神社は木城町にあり、中心部から川の上流へ5分ほど走ったところに位置する。都農神社とともに高鍋藩から厚い崇敬を受けてきた。

 神社の参道の両脇には樹齢400年を超える立派な楠木や木々が茂っている。

 都農神社と同様に大己貴命を祭神としていることや、百済の王族であった福智王が弔われているのが興味深い。

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木城町ホームページ 比木神社

 

2、宗麟原供養塔

 宗麟原供養塔は川南町にあり、木城町との境に近いところに位置する。川南古墳群からも近い。

 高城(耳川)の戦いの戦死者を弔う供養塔として、島津軍の山田有信が建立した。

 以下の写真を見ればわかるように、塔には折れた跡があり、塔に描かれた地蔵は顔が削られている。

 度々取り上げてきた廃仏毀釈のあとが見て取れる。

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宗麟原供養塔|川南町役場公式ホームページ

 

岡山と都農

 久しぶりの更新になりました。すみません。

 これからは不定期更新とします。3月中も少なくとも一度は更新出来ると思います。

 

 都農町史に付属している明治末の地図によると木戸平に吉備津神社跡があったということが記されている。江戸時代には村社として信仰を集めていたようだ。戦後に木戸平神社として合祀されたという記述がある。

都農の諸神社 その一 - ひょうすんぼ 

 吉備津神社は吉備氏を祀る神社である。補足しておくと、吉備氏は現在の岡山県を中心に勢力をもった氏族で、5世紀に最盛期を迎え、全国第四位の規模を誇る古墳も築造した。しかしヤマト朝廷によって勢力を削がれ、5世紀後半には勢力を分割された。日本史の教科書に登場する吉備真備が一番有名であろう。

 また明治末の地図を見てみると木戸平には陶山という苗字の方が多い。(陶山 - 苗字でポン! ネットの電話帳 2012)陶山という苗字は、現岡山県西部である備中国小田郡陶山村が起源とされている。(陶山さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!!)

 

 いただいたコメントによれば、現在木戸平神社は陶山さんの敷地内にあり、やはり陶山氏が木戸平地域に根を張っていることが伺える。(個人情報が含まれるため、コメントそのものの引用は控えます。)

 また陶山さんは現在15代目ということだが、一般的な基準である一代平均30年で考えると初代は450年ほど前になる。もちろん概算でしかないが、おおよそ戦国時代から江戸初期あたりだと考えられる。

 秀吉による九州平定(1586年)の際に、現在の岡山県の領主である宇喜多秀家が日向方面から進軍している。都農より南である木城で起きた根白坂の戦いに宇喜多秀家も参陣していることから、都農を通っていることは間違いない。

 これが何かしらのきっかけとなり、大友宗麟の焼き討ちや耳川の戦いなどで荒廃していたであろう都農に、岡山から入植したのではないか。

 木戸平神社が都農神社の元宮であるという言い伝えがあるとコメントでいただいたが、これについても調べてみたい。

 

 もし可能であれば、先祖の話や元宮の言い伝えについて伺ってみたい。

 お問い合わせフォームを別途作成したので、コメントという公開の場では書きにくいことなどをこちらで伝えていただければと思います。

お問い合わせ - ひょうすんぼ

都農と西郷隆盛

 西南戦争の直接の舞台になったわけではないが、都農も西郷隆盛と関わりがある。大河ドラマ西郷どん」が放送されているうちに書こうと思っていたのだが、後回しにしているうちに終わってしまった。

 1877年2月に西南戦争が勃発すると、地理的歴史的にも薩摩藩と関わりが深い現在の宮崎県の大半は、薩摩側に味方した。都農を含む旧高鍋藩は、銃の徴発を受けたものの、旧藩主秋月氏の呼びかけもあって参戦をしぶっていた。しかし孤立すること恐れて出兵し、3月ちょうど田原坂の戦いの最中に着陣した。

 田原坂の戦いでの敗戦以降余裕のなくなった薩摩の徴発は厳しくなり、金銭や金属、労働、コメなどを徴発され、都農神社の屋根も剥がすほどであった。また寡兵も行われ、都農からも20、30名薩摩側で参戦することとなった。

 7月29日には西郷隆盛が都農を訪れ、現在の桝屋(現在の報恩寺)に宿泊した。※見学は出来ません。

 8月に入ると都農は政府側が占拠し、耳川を挟んで薩軍と対峙した。都農には第三旅団が着陣している。

  戦死者はいなかったものの、収穫期とも重なったためこの一連の戦争で都農は荒廃したという。

 

金丸家と都農参り

 金丸家は修験の家系で同家に残る「日下部姓金丸系図」によると、古代日向の代表的豪族日下部氏にゆかりのある家柄である。日下部氏は日向中部を治め代々妻万神(都万神社)に仕えた。日下部氏は仁徳天皇の皇子、大日下王と若日下王のために設けられた御名代部から発したと伝え、2皇子の母は日向の諸県君牛諸井の娘、髪長媛といわれている。日下部氏は法元・湯浅・金丸・岩切・吉野・杉尾・郡司など18家に分かれ、古代から国府や郡司などの任に当たるものや妻万宮の神職をはじめ、宮崎平野に鎮座する諸神社の神職を務める家が多いといわれる。

宮崎みんなのポータルサイト miten 宮崎の情報満載 - mitenコラム

 このコラムでは、金丸家が取り上げられている。金丸家が日下部家につながる家系であることを考えると、都農神社の神職を金丸家が務めていたことも頷ける。

 

 高鍋藩は霧島参詣を禁じ、代わりに都農神社と尾鈴神社の参詣は「勝手次第」とし、領内神社参詣を奨めている。しかし、領民は行かなかったと思われる。何故なら信仰心に伴う参詣というより、自国領外、知らない土地に行き見たことない珍しい物を見たり食べたことのない物を食べたりする、いわゆる物見遊山が主目的であったからである。

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 以前同様の記事を書いたが、その記事で私は都農参りへの方針転換は成功したと推測していた。しかし伊勢参りなどの参詣が信仰心というよりは、物見遊山の口実であることを考えていなかった。そのことを考えると、このコラムのように都農参りへの方針転換はうまく行かなかったのかもしれない。

都農参り - ひょうすんぼ

高鍋藩における修験道と雨乞い

 宮崎みんなのポータルというサイトのコラムに面白い記述があったので、取り上げたい。

 高鍋藩では臨済宗を藩の宗教とし、密教を守護宗として保護が加えられ、その信仰もあつかった。そのため数多くの寺院の建立があり、その大部分は禅と密であった。
 この時期、高鍋藩内では尾鈴山を信仰の対象として修行の場とする修験が盛んで、藩内には松尾山地福寺を本寺として、鈴峰山飯長寺(松本)、蓬莱山興福寺(高城村)、朝倉山龍岸寺(城内脇村)、甘漬山観音寺(川南村)、角養山大泉寺(都農山下)、山号不明長福寺(美々津)など14か寺の修験宗寺院があった。

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 密教修験道と密接な関係をもっていたため、高鍋藩が守護宗としていたならば、修験道の場として尾鈴山が重要視されたことが伺われる。

 また上記記述によれば、藩内における修験道の本寺は松尾山地福寺におかれていたという。高鍋城内におかれていたこの寺は現在は廃寺となってしまったようだ。

 そのため尾鈴山修験道が都農神社を中心としていたとする、私の考えを改めなければならない。

 

 

 祈祷指示は円実院と日光院が最も多く、次が尾鈴神社(尾鈴大明神)と比木神社(比木大明神)そして都農神社(都農大明神)であった。

(中略)

 高鍋藩では元禄6年(1693)から安政元年(1854)までの161年間に祈雨・祈晴を306回行っている。雨乞い祈祷は2夜3日に及び家老またはそれに次ぐ上役が参加している。

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 尾鈴山では雨乞いの祈祷が何度も行われているがわかるが、その中心もやはり都農神社ではなく、円実院(地福寺)であった。

 円実院、日光院ともに現存していないが、比木神社は現在も木城町に鎮座しているので訪れてみたい。