ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

何故都農神社が一宮なのか②

日本三代実録』天安2年10月22日己酉条(858)

日向国従五位上高智保神。都農神等従四位上従五位上都万神。江田神。霧島神並従四位下
 
 日本三代実録によれば9世紀半ばには既に、都農神社と都萬神社の間に差がついている。11世紀、12世紀から日向国の有力者は土持氏へと移っていくが、9世紀時点での有力者は妻を拠点とする日下部氏である。

 以上でみてきたのように一宮の選定理由はわかっていないのが、実情ではある。都萬神社は恐らく地理と神官からみて、古代において日向国で最も力を持っていた日下部氏の信仰を集めていたはずである。日下部氏に対抗しうる有力な氏族が都農にいたとは思えない。したがって民衆の信仰を最も集めたのが都農神社であったのだろう。

 信仰を集めた理由は定かではないが、町史の言うように疱瘡が治るというご利益があったのかもしれない。あるいは雨乞いなのか、修験道なのかもしれないが、大友宗麟の焼き討ちで戦国時代以前の都農の資料はほとんど存在しないため詳しいことはわからない。

 現在では都農神社の方が都萬神社より栄えているように見えるが、「日本の神々 神社と聖地 1九州」(谷川健一)によれば中世以降は都萬神社の方が広く崇敬を集めていたようである。また所領も圧倒的都萬神社の方が大きい。都農神社が都萬神社より広く信仰を集めたのは平安時代の後半のごく一時期だけだと思われる。