地域おこしのあり方
ふと考えたことを書き連ねるだけなので、とりとめのない文章になると思います。久しぶりの更新なのに、すみません。
以前大学の講義で、とある町の地域おこしをしている方たちの話を聞くことがあった。
夜行バスに乗ってはるばるやって来てくださり、100枚以上のスライドで丁寧にその町の地域おこしについて説明してくださった。
中心となっているかたの熱量はすさまじいもので、70近いにもかかわらず一人で森を切り開いてヘリポートを作ったり様々な活動をしていた。
中でも印象的だったのが、町のシンボルであるクスノキの周辺を整備した話だった。枯れかけていた大楠を町村合併の際に統合後の町のシンボルにしようと整備したのだ。周囲の田畑を買い取って根に負担がかからないようにし、木の支えを作るなどの努力が功を奏し、枯れ果てた木は復活して町のシンボルとなった。
話を聞いたあとでふとあることが気になった。地域おこしといっても企業を誘致しようだとか、地場産品を売り出そうとかそういった話がほとんどないのである。
気になって教授に質問してみると、これが今のまちづくりのあり方らしい。かつては経済的な町おこしが中心であったが、今は文化的な町おこしが中心となっている。
教養ある地域の人が中心となって、自分たちの暮らした町はこんなに立派だったのだという誇りを見つけようとする終活のような町おこし。今はこのようなタイプの町おこしが多いそうだ。
そういう意味で経済的町おこしをさせようとする、国の方針とは若干の齟齬があるのであろう。
どちらが善いとも悪いとも思わないが、都農はどちらのタイプなのだろうかと思った。ただそれだけの記事である。
比木神社・宗麟原供養塔
1、比木神社
比木神社は木城町にあり、中心部から川の上流へ5分ほど走ったところに位置する。都農神社とともに高鍋藩から厚い崇敬を受けてきた。
神社の参道の両脇には樹齢400年を超える立派な楠木や木々が茂っている。
都農神社と同様に大己貴命を祭神としていることや、百済の王族であった福智王が弔われているのが興味深い。
2、宗麟原供養塔
宗麟原供養塔は川南町にあり、木城町との境に近いところに位置する。川南古墳群からも近い。
高城(耳川)の戦いの戦死者を弔う供養塔として、島津軍の山田有信が建立した。
以下の写真を見ればわかるように、塔には折れた跡があり、塔に描かれた地蔵は顔が削られている。
度々取り上げてきた廃仏毀釈のあとが見て取れる。
岡山と都農
久しぶりの更新になりました。すみません。
これからは不定期更新とします。3月中も少なくとも一度は更新出来ると思います。
都農町史に付属している明治末の地図によると木戸平に吉備津神社跡があったということが記されている。江戸時代には村社として信仰を集めていたようだ。戦後に木戸平神社として合祀されたという記述がある。
吉備津神社は吉備氏を祀る神社である。補足しておくと、吉備氏は現在の岡山県を中心に勢力をもった氏族で、5世紀に最盛期を迎え、全国第四位の規模を誇る古墳も築造した。しかしヤマト朝廷によって勢力を削がれ、5世紀後半には勢力を分割された。日本史の教科書に登場する吉備真備が一番有名であろう。
また明治末の地図を見てみると木戸平には陶山という苗字の方が多い。(陶山 - 苗字でポン! ネットの電話帳 2012)陶山という苗字は、現岡山県西部である備中国小田郡陶山村が起源とされている。(陶山さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!!)
いただいたコメントによれば、現在木戸平神社は陶山さんの敷地内にあり、やはり陶山氏が木戸平地域に根を張っていることが伺える。(個人情報が含まれるため、コメントそのものの引用は控えます。)
また陶山さんは現在15代目ということだが、一般的な基準である一代平均30年で考えると初代は450年ほど前になる。もちろん概算でしかないが、おおよそ戦国時代から江戸初期あたりだと考えられる。
秀吉による九州平定(1586年)の際に、現在の岡山県の領主である宇喜多秀家が日向方面から進軍している。都農より南である木城で起きた根白坂の戦いに宇喜多秀家も参陣していることから、都農を通っていることは間違いない。
これが何かしらのきっかけとなり、大友宗麟の焼き討ちや耳川の戦いなどで荒廃していたであろう都農に、岡山から入植したのではないか。
木戸平神社が都農神社の元宮であるという言い伝えがあるとコメントでいただいたが、これについても調べてみたい。
もし可能であれば、先祖の話や元宮の言い伝えについて伺ってみたい。
お問い合わせフォームを別途作成したので、コメントという公開の場では書きにくいことなどをこちらで伝えていただければと思います。
都農と西郷隆盛
西南戦争の直接の舞台になったわけではないが、都農も西郷隆盛と関わりがある。大河ドラマ「西郷どん」が放送されているうちに書こうと思っていたのだが、後回しにしているうちに終わってしまった。
1877年2月に西南戦争が勃発すると、地理的歴史的にも薩摩藩と関わりが深い現在の宮崎県の大半は、薩摩側に味方した。都農を含む旧高鍋藩は、銃の徴発を受けたものの、旧藩主秋月氏の呼びかけもあって参戦をしぶっていた。しかし孤立すること恐れて出兵し、3月ちょうど田原坂の戦いの最中に着陣した。
田原坂の戦いでの敗戦以降余裕のなくなった薩摩の徴発は厳しくなり、金銭や金属、労働、コメなどを徴発され、都農神社の屋根も剥がすほどであった。また寡兵も行われ、都農からも20、30名薩摩側で参戦することとなった。
7月29日には西郷隆盛が都農を訪れ、現在の桝屋(現在の報恩寺)に宿泊した。※見学は出来ません。
8月に入ると都農は政府側が占拠し、耳川を挟んで薩軍と対峙した。都農には第三旅団が着陣している。
戦死者はいなかったものの、収穫期とも重なったためこの一連の戦争で都農は荒廃したという。
金丸家と都農参り
金丸家は修験の家系で同家に残る「日下部姓金丸系図」によると、古代日向の代表的豪族日下部氏にゆかりのある家柄である。日下部氏は日向中部を治め代々妻万神(都万神社)に仕えた。日下部氏は仁徳天皇の皇子、大日下王と若日下王のために設けられた御名代部から発したと伝え、2皇子の母は日向の諸県君牛諸井の娘、髪長媛といわれている。日下部氏は法元・湯浅・金丸・岩切・吉野・杉尾・郡司など18家に分かれ、古代から国府や郡司などの任に当たるものや妻万宮の神職をはじめ、宮崎平野に鎮座する諸神社の神職を務める家が多いといわれる。
宮崎みんなのポータルサイト miten 宮崎の情報満載 - mitenコラム
このコラムでは、金丸家が取り上げられている。金丸家が日下部家につながる家系であることを考えると、都農神社の神職を金丸家が務めていたことも頷ける。
高鍋藩は霧島参詣を禁じ、代わりに都農神社と尾鈴神社の参詣は「勝手次第」とし、領内神社参詣を奨めている。しかし、領民は行かなかったと思われる。何故なら信仰心に伴う参詣というより、自国領外、知らない土地に行き見たことない珍しい物を見たり食べたことのない物を食べたりする、いわゆる物見遊山が主目的であったからである。
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以前同様の記事を書いたが、その記事で私は都農参りへの方針転換は成功したと推測していた。しかし伊勢参りなどの参詣が信仰心というよりは、物見遊山の口実であることを考えていなかった。そのことを考えると、このコラムのように都農参りへの方針転換はうまく行かなかったのかもしれない。
高鍋藩における修験道と雨乞い
宮崎みんなのポータルというサイトのコラムに面白い記述があったので、取り上げたい。
高鍋藩では臨済宗を藩の宗教とし、密教を守護宗として保護が加えられ、その信仰もあつかった。そのため数多くの寺院の建立があり、その大部分は禅と密であった。
この時期、高鍋藩内では尾鈴山を信仰の対象として修行の場とする修験が盛んで、藩内には松尾山地福寺を本寺として、鈴峰山飯長寺(松本)、蓬莱山興福寺(高城村)、朝倉山龍岸寺(城内脇村)、甘漬山観音寺(川南村)、角養山大泉寺(都農山下)、山号不明長福寺(美々津)など14か寺の修験宗寺院があった。
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密教は修験道と密接な関係をもっていたため、高鍋藩が守護宗としていたならば、修験道の場として尾鈴山が重要視されたことが伺われる。
また上記記述によれば、藩内における修験道の本寺は松尾山地福寺におかれていたという。高鍋城内におかれていたこの寺は現在は廃寺となってしまったようだ。
そのため尾鈴山修験道が都農神社を中心としていたとする、私の考えを改めなければならない。
祈祷指示は円実院と日光院が最も多く、次が尾鈴神社(尾鈴大明神)と比木神社(比木大明神)そして都農神社(都農大明神)であった。
(中略)
高鍋藩では元禄6年(1693)から安政元年(1854)までの161年間に祈雨・祈晴を306回行っている。雨乞い祈祷は2夜3日に及び家老またはそれに次ぐ上役が参加している。
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尾鈴山では雨乞いの祈祷が何度も行われているがわかるが、その中心もやはり都農神社ではなく、円実院(地福寺)であった。
円実院、日光院ともに現存していないが、比木神社は現在も木城町に鎮座しているので訪れてみたい。
永友司日記③
明治三年(一八七一)p101
七月廿一日永友司
左局御承事様
都農一宮神主金丸通治兼治病身( 俗ニ云ヨイヨイ病也) 罷有何分血□相続候様
無之候ニ付、水町和太郎跡相続仕居候ニ男林吉方此節、双方熟談之上呼戻し、
金丸之家血□相続為支度、医師容躰書相添願出候処、願之通り七月廿三日御
免ニ相成ル。尤御用難相勤候間、司方登城承り候。
私孫宗年義両三年以前より足痛罷有未タす切ト平癒不致折ニ相発候故、登坂
之上療治為支度甚願之処、幸此節綾部考之介来ル十日より登坂致候趣ニ付、
随従致療養為支度且又当時皇学修業も相成丈為致度御座候間、早々御免被成
下候様此段奉願候。以上。
上記記述を読む限り、単に和太郎が幼いからという理由のみならず、適齢期の神主がヨイヨイ病(中風)を発症していたことも関係しているのであろう。
永友司は自身の病もあって、このタイミングで金丸家に都農神社の神主を相続させることを模索している。それは叶ったようだが、国幣社となった都農神社の神職の任官は中央からなされるようになったため、翌年には堀口章介なる人物が都農神社の神主に就くこととなる。
今回は神官の交代というテーマで読んでみたが、明治維新前後の雰囲気を神職という目線から見ることができて面白かった。(ほとんどは仕事上の記録である)
廃仏毀釈についての情報を得られればと思ったが、それらしき記述は下記を除き、見当たらなかった。1872年までの日記であるため、高鍋藩ではそれ以降に廃物希釈が活発化した可能性があるが、全国的なピークは1868-1871年である。そのため意図的に、あるいは業務と関係ないため記述しなかった可能性がある。
明治二年(一八六九)p85
三月十二日是迄寺社与相唱来候得共、以来社寺与相唱候事。
右之通従朝廷被仰出候趣有之候ニ付、前断之通此節御改革ニ相成候間可被其
意候。
廃物希釈というよりは、神仏分離令の発布について記述されただけである。
都農神社のホームページで大泉寺文書が公開されているので、テーマを決めて読みすすめていきたいです。