ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農の由来について 

 都農の町名の由来について度々このブログで触れてきたが、興味深い見解を共有いただいたので、記事にします。

 コメントでも問い合わせフォームでも構わないので、都農に関するあれこれについて見解を共有いただけるとありがたいです。

 

【共有いただいた見解】

 「つの」と言う地名は島根と広島の県境あたりにと、滋賀、高知にあり、高知にある津野町には、確か式内社だったと思いますが、津野神社があります。
 また積石塚古墳は南九州では都農に集中していて、この古墳は朝鮮式と言われています。
 察するに、その当時、渡来系の士族がこの地に住居していた事がうかがえます。

 日本書紀に、第11代垂仁天皇期の記録で、新羅より「ウシチアリシチカンキ」という方が、第10代崇神天皇に拝謁する為渡来されますが、崇神天皇は既に崩御されて会うことが出来なかったとあります。
 問題は、その「ウシチ…」と言う方が海岸に上陸された時の格好が、角のついた被り物を被って居た為、その海岸を角額(つぬが)と名付けたとあり、その方に和名として「ツヌガアラシト」が与えられたとされています。
 そして、その地名は現在訛って駿河となったとされています。
 また、第15代応神天皇期には、日向の髪長姫が天皇に見初められ都に上る際に、鹿の角が付いた被り物をした士族が姫を護衛して都入りをした。との記録があることから、これも同じく渡来系の士族が日向の地に居た証ではないかと考えます。

 日下部氏は朝鮮にルーツのある士族と言われ、この士族の姫を渡来系の士族が護衛して都入りをしたと考えられます。
 朝鮮式と言われる積石塚古墳の集中する都農の先人が護衛していたのではないかとも考えられます。

 以上を考察すると、都農と言う地名の由来は角の付いた被りものをした士族がいたからその地名が付いたのではないかと個人的には思っています。

 また、この地域の諺?で「都農で喧嘩を売るな」というのは、渡来系の血の気の多い士族の子孫であるが故に…ではないかと思います。