尾鈴山について 再考④ 尾鈴山の呼称
4回に渡って続いた尾鈴山再考も今回で終わりにします。
尾鈴山は今でこそ尾鈴山の呼称で統一されているが、以前は違ったようである。
再考①で登場した吐濃峯もそうであるが、他にもいくつかの呼称がある。
昔から今までに尾鈴山を、速日の峰と呼んでおるのを他の本には見ることが出来ないけれども、その主峰を、ささが丘、またはほこの峰と言うことは、今でも村人たちは伝え言つて
おるのであります。
速日の峰は尾鈴神社の祭神饒速日命が由来であろう。ほこの峰は恐らく何かしらの神話か伝承が由来だと思われる。ささが丘については不明。
「新編・九州の山と高原」(折元秀穂,西日本新聞社,1985年)によれば、中世において尾鈴山は新納(にいろ)山と呼ばれていたようである。
新納の由来は新納院から来ていると思われる。新納院とは荘園のことで、現在の都農・川南・木城・高鍋・新富がそれに該当する。後に東郷なども加わった。新納院の代表的な山と言うことで新納山となったのだろう。
尾鈴山と呼ばれるようになったのはいつからであろうか。江戸期に入ってからは尾鈴山の呼称で統一されている。秀吉の太閤検地による荘園の消滅により、新納院がなくなったことが、新納山と呼ばなくなる一つのきっかけにはなったと思うが、呼称が移行した正確な時期は不明。
尾鈴山の呼称の由来として広く知らているのは以下の伝承である。細部が異なる伝承はあるが、大まかな構成に差は見られない。
あるとき、雪のように白い馬が1頭交じっていた。この馬は捕らえられず、山中深く分け入って神様の馬となった。山の神は白馬に乗って都農の村里や浜辺の上を駆けた。神が大空を駆けるとき、明月のようにはっきり仰ぎ眺められたという。
馬がいななけば鈴がシャンシャンと鳴り、鈴が鳴れば馬がいなないて鈴の音が遠くの村里まで響き渡った。馬の首には黄金色の鈴が輝いていた。このように山上はるか鈴の音が響くことから、この神様を「御鈴様」、または「尾鈴様」、その山を「御鈴山」、後に「尾鈴山」と呼ぶようになったと伝えられる。
実際にこのような出来事があったとは思えない。しかし都農には馬牧があり、それが何かしら由来になっているのであろう。