明治初期の高鍋藩
明治初期の高鍋藩と都農町のデータを「明治史要」、「府藩県石高人口表」、「統計集誌」より抜粋し、整理してみたい。
日向藩
- 戸数:9,117
- 人口:43,334
- 華族:5
- 士族:2,097
- 卒(下級武士):7,420
- 神職:934
- 僧尼:139
- 平民32,510
- その他:244
- 表高:27,000
- 内高:59,993
- 現石:16,745
特徴としては、まず第一に士族、卒の多さがあげられる。
士族の数は石高から考えるとやや多い程度の水準だが、卒の数は極めて多い。
30万石以上の表高を有する福井藩より多く、これだけの卒を抱える藩は10万石以上の藩しかない。
その原因は、所領の縮小にあると思われる。
高鍋藩はもともと現在の福岡県に所領を持っていた、秋月氏の領する藩で、秋月氏の戦国時代の全盛期の領地は30万石以上にも及んでいた。
領地を縮小し、移動させられた際に多くの家臣を連れて行ったものの士族として雇うことができなかったため、このような現象が発生したと思われる。
余談だが、私の祖父の家系はこの卒に当たると思われる。
名字帯刀を許されたが、士族らしく城中に仕えたりはしていなかったという話を聞いたことがある。
特徴の第二に、神職の多さと僧尼の少なさあげられる。
全国的にみると、神職の数が僧尼より多い藩はそれほど多くない。高鍋藩は、神職の数が僧尼の約7倍にも及ぶ。
引用元の資料は、明治二年~四年ごろにかけてまとめられた資料であることから考えるに、廃仏毀釈による影響が大きいと思われる。
現に廃仏毀釈が激しかった鹿児島藩などでは、僧尼が一人もいない。
廃仏毀釈の激しかった高鍋藩では、僧尼の神職への転籍が余儀なくされたのであろう。
特徴の第三に、表高と比較して内高が多いことがあげられる。
大半の藩は江戸時代を通じて石高が微増しており、水戸藩などの例外を除いて表高より内高のほうがやや多くなっている。
しかし二倍以上の乖離がある藩は珍しい。
戦国時代までに開発が進んでおらず、また江戸時代に開発が進んだのであろう。
士族や卒は多いが、内高が多いため藩の財政には余裕があったと思われる。
参考までに「旧高旧領取調帳」によると、都農町の表高は3,867.257080石となっている。
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