ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農

目次

年末ということで整理も兼ねて目次を作成しました。 古い記事は後に考えを改めることが多いので、目次にある記事を中心に参照してください。 ・都農の地名についての考察 都農と津野① - ひょうすんぼ 都農と津野② - ひょうすんぼ 都農と津野③※補足 - ひょう…

疫病と都農神社

ちょうど2年ほど前に都農神社と疫病との関係性について検討していた。その内容を整理する。 都農神社は疱瘡(天然痘)治癒にご利益がある神社として知られてきた。現代では疱瘡治癒のご利益に対するありがたみはあまり感じられないかもしれないが、近代に入…

明治初期の高鍋藩

明治初期の高鍋藩と都農町のデータを「明治史要」、「府藩県石高人口表」、「統計集誌」より抜粋し、整理してみたい。 日向藩 戸数:9,117 人口:43,334 華族:5 士族:2,097 卒(下級武士):7,420 神職:934 僧尼:139 平民32,510 その他:244 表高:27,000 …

都農の由来について 

都農の町名の由来について度々このブログで触れてきたが、興味深い見解を共有いただいたので、記事にします。 コメントでも問い合わせフォームでも構わないので、都農に関するあれこれについて見解を共有いただけるとありがたいです。 【共有いただいた見解…

都農の由来

滋賀県高島市に津野神社があるのを発見した。 この神社は「つのう」神社と読むらしい。http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1339http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/…

岡山と都農

久しぶりの更新になりました。すみません。 これからは不定期更新とします。3月中も少なくとも一度は更新出来ると思います。 都農町史に付属している明治末の地図によると木戸平に吉備津神社跡があったということが記されている。江戸時代には村社として信…

都農と西郷隆盛

西南戦争の直接の舞台になったわけではないが、都農も西郷隆盛と関わりがある。大河ドラマ「西郷どん」が放送されているうちに書こうと思っていたのだが、後回しにしているうちに終わってしまった。 1877年2月に西南戦争が勃発すると、地理的歴史的にも薩摩…

金丸家と都農参り

金丸家は修験の家系で同家に残る「日下部姓金丸系図」によると、古代日向の代表的豪族日下部氏にゆかりのある家柄である。日下部氏は日向中部を治め代々妻万神(都万神社)に仕えた。日下部氏は仁徳天皇の皇子、大日下王と若日下王のために設けられた御名代部…

高鍋藩における修験道と雨乞い

宮崎みんなのポータルというサイトのコラムに面白い記述があったので、取り上げたい。 高鍋藩では臨済宗を藩の宗教とし、密教を守護宗として保護が加えられ、その信仰もあつかった。そのため数多くの寺院の建立があり、その大部分は禅と密であった。 この時…

永友司日記③

明治三年(一八七一)p101 七月廿一日永友司左局御承事様都農一宮神主金丸通治兼治病身( 俗ニ云ヨイヨイ病也) 罷有何分血□相続候様無之候ニ付、水町和太郎跡相続仕居候ニ男林吉方此節、双方熟談之上呼戻し、金丸之家血□相続為支度、医師容躰書相添願出候処、…

永友司日記②

永友司日記① - ひょうすんぼ 前回からだいぶ時間が空いてしまいましたが、検討を続けます。 文久二年( 一八六二) p28ーp32一一正月廿三日御冬都農金丸肥前死去。倅和太郎酉ノ年十三才、幼少ニ付、後見之義和太郎親類之者より頼来り御奉行所へも右之趣届差出…

永友司日記①

定期更新が途絶えてしまい、申し訳ないです。 可能な限り長く続けられるよう2週に一度の更新を目安にしばらくは続けていきたいと思います。 都農神社のホームページで永友司日記が読めるようになっている。 http://w01.tp1.jp/~sr09697901/tunoookamisaidpa…

塵添壒囊抄 考察

2週に渡って紹介し た塵添壒囊抄の説話はどのような経緯で生まれたのであろうか。 説話から伺われることは、大きく5つある。 ①都農神社成立の権威付け 神功皇后の遠征において勧請されたという形で権威づけをしている。 ②航海の安全というご利益 船の守り…

山の背くらべ

いざ「塵添壒囊抄」を現代語に訳してみると、どこかで見覚えがあるような気がした。気になって柳田国男の著作を漁ってみると、「日本の伝説」という著作にほぼ同じエピソードが載っていた。 「日本の伝説」日本に伝わる伝承や伝説をある程度類型化してまとめ…

塵添壒囊抄 訳

塵添壒囊抄に都農神社についての記述が存在する。度々取り上げてがいるが、訳を作っておきたいと思う。塵添壒囊抄の説明については最期に引用する。古文は苦手なので修正点があれば指摘してください。 原文 日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト…

都農の方に聞きたいこと 改訂版その2

以前も同様の記事を作成したのだが、半年以上経って聞きたいことも変化したので、再度改めて作ることにしました。追加した質問は⑥以降になります。 各質問に関連した記事を質問の下にリンクしたので、興味のあるかたは覗いてみてください。 これらの質問以外…

都農と津野④ 問題点

都農の地名の由来ついて漢字と読みの両方から以前考察したが、これには問題点がある。以前考察したときから考えてはいるが結論が出ないので、とりあえず整理しておく。 吐濃(トノ)→都農(トノ)→都農(ツノ)←津野(ツノ) 都農と津野① - ひょうすんぼ 都…

都農参り

江戸時代にたびたびお蔭参りと呼ばれる、伊勢神宮参拝が流行したことはよく知られている。同様の現象は出羽三山など有名な寺社でも発生している。 高鍋藩という狭い範囲ではあるが、都農参りとでも呼ぶべき現象が発生していたようである。 1776年 近年猥…

尾鈴山系

以前いただいたコメントによって尾鈴山系という観点に気づいた。(詳しくは以下のリンク参照) 呪術信仰という観点 いただいたコメントを中心に考察 - ひょうすんぼ 尾鈴山は尾鈴山系と呼ばれる山系の中で最も高い山である。そのため尾鈴山に対する信仰は何…

都農の歴史を調べるにあたっての課題

今まで度々触れてきたと思うが、都農の歴史を調べるにあたって大きな壁が存在する。それらについて整理したい。 1、大友宗麟による焼き討ち(1578年) 島津氏に日向を追われた伊東氏を助けるべく日向に入った大友宗麟は狂信的なキリスト教信者であり、…

都農の地形

最近ブラタモリなどに代表されるように地形ブームが到来している。(?)私も地形は好きで、城や古墳の建つような見晴らしの良い台地が好きである。今回は都農町の地形について触れたい。 都農町の東部は宮崎平野の北端を占める。しかし平野部は狭く町の6割…

都農の太鼓台

都農の夏祭りといえば太鼓台であるが、その太鼓台の由来についてはわからないことが多い。 www.youtube.com 都農の祭り - ひょうすんぼ 各保存会では江戸末期ないし明治期に瀬戸内や上方から移入したことを言い伝えている。香川県大原野町や豊浜町ではチョウ…

尾鈴神社

尾鈴神社に行ってきた。 尾鈴神社は木戸平あたりから東九州道をくぐってすぐの山の上にある。(恐らく荒崎山)ふもとから車で約40分だが、道が狭い箇所や岩が落ちている箇所が多々あり、道から落ちる車が何台もいるということなので、訪れるのはあまりおす…

都農神社と熊野

尾鈴山は古来から修験者の修行の地となっており、都農神社は修験者の拠点となっていた。 寛正二年(一四六一)二月二五日の旦那売券(熊野那智大社文書)には日向菊池氏の一族が重代相伝してきた先達職の内容に、臼杵の「つのゝミや」などがみえ、当社は所属…

何故都農神社が一宮なのか②

『日本三代実録』天安2年10月22日己酉条(858) 授二日向国従五位上高智保神。都農神等従四位上。従五位上都万神。江田神。霧島神並従四位下。 神道・神社史料集成 日本三代実録によれば9世紀半ばには既に、都農神社と都萬神社の間に差がついている。11世…

何故都農神社が一宮なのか①

都農神社が一宮であることは一つ大きな問題である。 都農の属する日向国では古代から近世まで現在の西都市妻のあたりを中心に栄えていた。西都原古墳群の規模は全国有数であり、都農の古墳群は比較にならない。国府や国分寺なども妻におかれ、戦国時代日向を…

都農と似た地名

島根県江津市に都農郷とよばれた郷があったという。完全に都農町と同じ漢字と読みである。 現在でも地名は残っており、都野津駅という駅が山陰本線にはある。2年ほど前に通ったことはあるが、爆睡していたので覚えていない。 都農との交流は確認出来なかっ…

大己貴命と大国主命

都農神社の祭神は大己貴命(別名 大国主命)ということになっている。 日向国一之宮都農神社公式ホームページ 大己貴命と大国主命を単純に同じ神として考えてよいのかという問題がある。古事記には大国主命の一名として大己貴命があげられていることを根拠と…

四国と都農

都農を含む児湯郡には四国とりわけ高知や愛媛からの移住者が多いように思われる。ここでいう移住者は近年の話ではなく、江戸時代以前の話である。 柳田国男も椎葉に向かうためこの地を通った際に以下のように述べている。 宮崎もまた純然たる新開地の町であ…

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈

尾鈴山は修験道の地としても知られていたようで、尾鈴山一帯には修験者が多くいたと言われている。尾鈴神社の信仰も修験者の影響を受けていてもおかしくはなく、実際貞享寺社帳によれば津野権現と呼ばれていたこともあるようである。また素盞嗚命は牛頭天王…