ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

「九州南部地方の民風」について

 柳田国男の初期の著作「九州南部地方の民風」において都農近辺のことが言及されているのだが、いくつか気になる点があったので触れておく。

 

 以下引用

 宮崎もまた純然たる新開地の町でありまして、土語方言というものだなく、諸国語の混合であります。この土地で最も勢力のあるのは、伊予の宇和地方の者であります。高鍋の北なる河南村の高原、美々津、細島地方より、西臼杵郡高千穂地方、すなわち三田井附近にも移住者がはなはだ多く、新開地の状態を呈して居るのであります。

(「柳田國男全集5巻、『九州南部地方の民風』」,柳田国男,筑摩書房,1989年)

 

 まず気になったのは「この土地で最も勢力のあるのは、伊予の宇和地方の者であります。」という部分である。柳田が指摘するように宮崎は新開の地である。確かに宮崎は明治以降に開発された地域も多い。例えば川南は開発がかなり遅く日本三大開拓地の一つであり、戦後に開拓が進んだ町である。川南合衆国と自称している通り、他県からの移住者が多い。また私の祖母の実家も他県から移住してきた家系である。

 しかしながら勢力を持つ者を伊予の宇和地方に限定するというのは疑念がある。先に話した祖母の実家は高鍋の商家で、いわゆる地主であり、町議会なども努めている。ただ伊予からではなく土佐からの移住者の家系であった。土佐や伊予など四国の西部、南部地域とは海上を通じての交流が盛んであったようで、そこからの移住者は多かったであろうということは予想される。そういった移住者には商人が多く、勢力を持つ者も多かったであろうが、それを伊予の宇和にまで限定するのは行き過ぎのように思われる。

 次に気になったのは「高鍋の北なる河南村の高原、美々津、細島地方」という記述である。一見すると河南村に高原、美々津、細島が所属しているように見えるが、美々津、細島は河南ではない。そもそも河南は名貫川の南という意味であるのだが、美々津、細島は名貫川のはるか北である。また美々津も細島も当時は独立した町であった。(現在は日向市)間違えて記述したのか、読みとりづらいのかはわからないが注意したい。

 加えて注意したいのが、高原という地名である。ここは明確に河南に属していると読み取れるが、川南にそういった地名はない。恐らく鹿児島との県境のほうにある高原か、川南にある高盛と間違えたのであろう。