ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農と津野②

 明治後期の地図には「津野」という地名は残っておらず、現代でも「津野」という地名は確認出来ない。聞き込みを行っても「津野」という字を目にしたことがある人は見つからなかった。

 では「津野」はどこへ行ったのか。まず「都農」と「津野」それぞれの位置を確認したい。

 明治初期の町村合併の過程を見る限り「都農町」と呼ばれていたのは、現在の商店街付近のごく一部である。(詳しくは以下のリンク参照)

都農町の誕生 - ひょうすんぼ

 橘三喜(1635~1703年)の「一宮巡詣記」を確認すると、北から来た橘三喜は津野村に入ってから都農神社に詣でて、津野村を出てから名貫川を渡っている。また高山彦三郎も名貫村から津野村まで一里(3キロ程度)と書いている。これらの記述を総合すると津野村は都農町を内包した地域であると推定される。都農神社の鳥居が都農高校付近にあったことから考えるに、都農高校から都農小学校あたりまでが範囲であろう。東西の範囲については不明だが、貞享寺社帳には津野崎明田という記述がある。

 以上のように現在の商店街付近の小さな都農町とそれを内包する津野村がというものが想定出来る。

 上記の事情を踏まえるると都農町の範囲の拡大に伴って都農町と津野村は同じ領域を指すようになり、呼称を区別必要性がなくなって、津野村という呼称が消滅したと考えることが出来るだろう。

 また津野村という呼称が検地帳からは確認出来ないことから、行政区分としての津野村は存在せず、ある地域を指す言葉として慣習的に津野村が用いられていたものと思われる。したがって容易に消滅しやすい呼称であった。

 そして津野という呼称は読み方という形で都農に吸収されていったのだろう。

 

 最後にまとめると

 吐濃(トノ)→都農(トノ)→都農(ツノ)←津野(ツノ)