目次
年末ということで整理も兼ねて目次を作成しました。
古い記事は後に考えを改めることが多いので、目次にある記事を中心に参照してください。
・都農の地名についての考察
・尾鈴山についての広範な考察
尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ
尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ
・都農に多い三輪氏についての考察
・都農神社が一宮であることについての考察
・柳田国男が宮崎を訪れた際に書いた著作に対する批判
・ブログのタイトルにもなっているひょうすんぼについてまとめたもの
・都農の歴史を調べるにあたっての課題
疫病と都農神社
ちょうど2年ほど前に都農神社と疫病との関係性について検討していた。その内容を整理する。
都農神社は疱瘡(天然痘)治癒にご利益がある神社として知られてきた。現代では疱瘡治癒のご利益に対するありがたみはあまり感じられないかもしれないが、近代に入るまで天然痘との戦いは重要な問題であった。
天然痘は6世紀ごろに渡来人とともに日本に入ってきた。それ以来流行を繰り返しながら定着していく。天然痘は致死率が30%と極めて高く、また1人あたり平均5人にうつすため感染力も極めて高い。19世紀半ばに種痘が始まるまでは、天然痘とは常に戦い続けていたのだ。近代にはいるまで天然痘の原因がわからず、神の怒りだと理解されてきた。都農神社でも吐乃大明神の怒りとして捉えられていた。
都農神社のご利益は疫病との戦いの歴史の証跡である。
明治初期の高鍋藩
明治初期の高鍋藩と都農町のデータを「明治史要」、「府藩県石高人口表」、「統計集誌」より抜粋し、整理してみたい。
日向藩
- 戸数:9,117
- 人口:43,334
- 華族:5
- 士族:2,097
- 卒(下級武士):7,420
- 神職:934
- 僧尼:139
- 平民32,510
- その他:244
- 表高:27,000
- 内高:59,993
- 現石:16,745
特徴としては、まず第一に士族、卒の多さがあげられる。
士族の数は石高から考えるとやや多い程度の水準だが、卒の数は極めて多い。
30万石以上の表高を有する福井藩より多く、これだけの卒を抱える藩は10万石以上の藩しかない。
その原因は、所領の縮小にあると思われる。
高鍋藩はもともと現在の福岡県に所領を持っていた、秋月氏の領する藩で、秋月氏の戦国時代の全盛期の領地は30万石以上にも及んでいた。
領地を縮小し、移動させられた際に多くの家臣を連れて行ったものの士族として雇うことができなかったため、このような現象が発生したと思われる。
余談だが、私の祖父の家系はこの卒に当たると思われる。
名字帯刀を許されたが、士族らしく城中に仕えたりはしていなかったという話を聞いたことがある。
特徴の第二に、神職の多さと僧尼の少なさあげられる。
全国的にみると、神職の数が僧尼より多い藩はそれほど多くない。高鍋藩は、神職の数が僧尼の約7倍にも及ぶ。
引用元の資料は、明治二年~四年ごろにかけてまとめられた資料であることから考えるに、廃仏毀釈による影響が大きいと思われる。
現に廃仏毀釈が激しかった鹿児島藩などでは、僧尼が一人もいない。
廃仏毀釈の激しかった高鍋藩では、僧尼の神職への転籍が余儀なくされたのであろう。
特徴の第三に、表高と比較して内高が多いことがあげられる。
大半の藩は江戸時代を通じて石高が微増しており、水戸藩などの例外を除いて表高より内高のほうがやや多くなっている。
しかし二倍以上の乖離がある藩は珍しい。
戦国時代までに開発が進んでおらず、また江戸時代に開発が進んだのであろう。
士族や卒は多いが、内高が多いため藩の財政には余裕があったと思われる。
参考までに「旧高旧領取調帳」によると、都農町の表高は3,867.257080石となっている。
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/searchrd.pl
日下部氏について
日向国内の歴史について考える際に日下部氏は避けて通れない。
国府が置かれていた西都近辺を支配していたのは日下部氏であるし、都萬神社の神官も日下部氏である。都農神社の神官を務めていた金丸氏も日下部氏の一族と言われており、また戦国時代に日向国北部を支配した土持氏も日下部氏の一族である。
日下部氏は古代においては有力な一族であったようで、但馬や伊豆、甲斐などで国造(国の統治者)を務めている。
ところがその日下部氏については何もわからない。諸説あるが、統一した学説は打ち出されていない。
そこで日下部氏について検証してみようと思う。
815年に編纂された古代氏族の系譜書である新撰姓氏録では、日下部氏の始祖として「火闌降命之後也」との記述と「神饒速日命孫比古由支命之後也」との記述がある。この内容について整理したい。
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji02.html
①「火闌降命」とは木花咲耶姫が炎の中で産んだ子供の第二子である。西都には「無戸室」と呼ばれる木花咲耶姫が出産した地があるが、この地との関連性が見えてくる。
https://www.saito-kanko.jp/sightseeing/utsumuro
②「饒速日命」は謎多き神ではあるが、このブログで度々述べてきたように日向との関係性が深い。
http://hyousunbo.hatenablog.jp/entry/2017/10/21/000000
③「比古由支命」は開化天皇の子孫とされているが、9世紀に成立したとされる旧事本紀では、「火闌降命」と「比古由支命」は同一説が述べられている。新撰姓氏録で日下部氏の始祖に二種類の記述があったことと整合性がとれる。
以上を整理すると、日下部氏は「火闌降命」=「比古由支命」を始祖とする一族であり、「饒速日命」とも関係性が深いことがわかる。
「火闌降命」は隼人の祖ともされており、また日本書紀では海幸山幸の海幸にあたる人物で海洋系の一族と関係性が深い。
隼人と大和朝廷の勢力圏の境にいた日下部氏が「火闌降命」を始祖と称していること、そして全国各地に一族が散っていることも納得がいく。
日下部氏について整理していくことで、「饒速日命」と日向の関連性も見えてきた。
しかし下記のブログにあるように、日下部氏については大量の情報があり未だ整理しきれていない情報がたくさんある。引き続き整理していきたい。
都農の由来について
都農の町名の由来について度々このブログで触れてきたが、興味深い見解を共有いただいたので、記事にします。
コメントでも問い合わせフォームでも構わないので、都農に関するあれこれについて見解を共有いただけるとありがたいです。
【共有いただいた見解】
「つの」と言う地名は島根と広島の県境あたりにと、滋賀、高知に
また積石塚古墳は南九州では都農に集中していて、この古墳は朝鮮式と
察するに、その当時、渡来系の士族がこの地に住居していた事がう
日本書紀に、第11代垂仁天皇期の記録で、新羅より「ウシチアリ
問題は、その「ウシチ…」と言う方が海岸に上陸された時の格好が
そして、その地名は現在訛って駿河となったとされています。
また、第15代応神天皇期には、日向の髪長姫が天皇に見初められ
日下部氏は朝鮮にルーツのある士族と言われ、この士族の姫を渡来
朝鮮式と言われる積石塚古墳の集中する都農の先人が護衛していた
以上を考察すると、都農と言う地名の由来は角の付いた被りものを
また、この地域の諺?で「都農で喧嘩を売るな」というのは、渡来
都農の由来
滋賀県高島市に津野神社があるのを発見した。
この神社は「つのう」神社と読むらしい。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1339
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1352
由緒を読むと、角氏によって周防国都濃郡都濃郷から勧請されたという。1966年まで同地には都濃町が存在していた。(現在は徳山市)
角氏は土佐日記の紀貫之で有名な紀氏と同族で、紀氏は応天門の変で失脚するまでは参議を複数出すなど権勢を誇っていた。465年に新羅から帰国した際に都濃郡に留まり、角という氏姓をさずけられたという。
都農という地名はあまり一般的ではないことを考えると、都農神社は周防国都濃郡、もしくは先にとりあげた津野神社から勧請された、もしくは深い関わりをもっていたと考えるのが妥当ではないか。
都農町に「都農」と「津野」という地名が混在していた理由も、勧請元あるいは関係のある地で既に混在していたことによって説明出来る。
ただ都濃郡では、都濃神社あるいは津野神社といった名前の神社を確認することが出来ない。そのため都濃郡からの勧請したと考えた場合、勧請元は不明である。
また以前とりあげたように、風土記では「吐乃」という地名が登場している。これをどう考えるかが課題として残る。
比木神社・宗麟原供養塔
1、比木神社
比木神社は木城町にあり、中心部から川の上流へ5分ほど走ったところに位置する。都農神社とともに高鍋藩から厚い崇敬を受けてきた。
神社の参道の両脇には樹齢400年を超える立派な楠木や木々が茂っている。
都農神社と同様に大己貴命を祭神としていることや、百済の王族であった福智王が弔われているのが興味深い。
2、宗麟原供養塔
宗麟原供養塔は川南町にあり、木城町との境に近いところに位置する。川南古墳群からも近い。
高城(耳川)の戦いの戦死者を弔う供養塔として、島津軍の山田有信が建立した。
以下の写真を見ればわかるように、塔には折れた跡があり、塔に描かれた地蔵は顔が削られている。
度々取り上げてきた廃仏毀釈のあとが見て取れる。