ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

生目

 宮崎市の市街地からほど近くにある生目地区を訪れた。

 

①生目神社

 生目という名から明らかなように眼病にご利益があるとされている。平日に訪れたのだが、参拝客が他に幾人かおり、信仰を集めていることが伺えた。

 宇佐神宮の荘園管理のため八幡神勧進したのが始まりとされるが、明治に入るころに八幡神は祭神ではなくなっている。生目の由来については藤原景清の眼を祭ったという説や眼病のご利益があるからなどいくつかの説があるようである。

生目神社

f:id:ekusuto168:20180217002715j:plain

 

②生目古墳

 訪れた際には近くの生目の杜運動公園ソフトバンクホークスがキャンプを行っており、その臨時駐車場ともなっていた。

 古墳は西都原古墳群と同じく台地の上にある。その麓には遊古館という博物館兼体験スペースがあり、勾玉づくりなどが出来るようになっていた。

 西都原古墳群とは異なり古墳の上に登れることが目玉となっている。しかし九州最大の前方後円墳である3号墳には登ることが出来ても、雑木林のようになっているため、なかなか全容がつかみにくい。ただ3号墳からみた7号墳ははっきり前方後円の形が視認出来た。また5号墳は当時を再現して石を瓦のようにして墳丘を覆っており見応えがあった。

生目古墳群史跡公園 - 宮崎市

 

f:id:ekusuto168:20180217003551j:plain

f:id:ekusuto168:20180217003549j:plain

 

都農神社と熊野

 尾鈴山は古来から修験者の修行の地となっており、都農神社は修験者の拠点となっていた。

 

 寛正二年(一四六一)二月二五日の旦那売券(熊野那智大社文書)には日向菊池氏の一族が重代相伝してきた先達職の内容に、臼杵の「つのゝミや」などがみえ、当社は所属する臼杵郡とともに菊池氏の影響下にあった。天文年間(一五三二―五五)の神事日記(新名爪八幡宮文書)によれば、天文四年一〇月二九日、日向一宮での奇瑞に対して新名爪八幡宮(現宮崎市)の祭礼で神楽が奉納されている。当社は紀州熊野社の御師の拠点である

 日本歴史地名体系

 

 孫引きで申し訳ないのですが、都農神社が熊野の影響下にあったことが伺えます。現在の都農神社の境内に末社として熊野神社があるのはこれに由来するのでしょう。廃仏毀釈と同時に出された修験禁止令、あるいは大友宗麟の焼き討ちにより都農神社の衰微によって熊野との関係は終わったと思われます。

 なお旦那売券とは檀那売券のことで、檀家関係の売買のようなものを意味します。日向菊池氏は南北朝期に活躍した肥後の菊地氏の分家でしょうか。先達職とは山伏や修行者が山に入る際に先導する者のことを言います。

何故都農神社が一宮なのか②

日本三代実録』天安2年10月22日己酉条(858)

日向国従五位上高智保神。都農神等従四位上従五位上都万神。江田神。霧島神並従四位下
 
 日本三代実録によれば9世紀半ばには既に、都農神社と都萬神社の間に差がついている。11世紀、12世紀から日向国の有力者は土持氏へと移っていくが、9世紀時点での有力者は妻を拠点とする日下部氏である。

 以上でみてきたのように一宮の選定理由はわかっていないのが、実情ではある。都萬神社は恐らく地理と神官からみて、古代において日向国で最も力を持っていた日下部氏の信仰を集めていたはずである。日下部氏に対抗しうる有力な氏族が都農にいたとは思えない。したがって民衆の信仰を最も集めたのが都農神社であったのだろう。

 信仰を集めた理由は定かではないが、町史の言うように疱瘡が治るというご利益があったのかもしれない。あるいは雨乞いなのか、修験道なのかもしれないが、大友宗麟の焼き討ちで戦国時代以前の都農の資料はほとんど存在しないため詳しいことはわからない。

 現在では都農神社の方が都萬神社より栄えているように見えるが、「日本の神々 神社と聖地 1九州」(谷川健一)によれば中世以降は都萬神社の方が広く崇敬を集めていたようである。また所領も圧倒的都萬神社の方が大きい。都農神社が都萬神社より広く信仰を集めたのは平安時代の後半のごく一時期だけだと思われる。

何故都農神社が一宮なのか①

 都農神社が一宮であることは一つ大きな問題である。

 都農の属する日向国では古代から近世まで現在の西都市妻のあたりを中心に栄えていた。西都原古墳群の規模は全国有数であり、都農の古墳群は比較にならない。国府国分寺なども妻におかれ、戦国時代日向を支配した伊東氏も妻からほど近い丘にある都於郡城を本拠とした。しかし妻にある都萬神社が二宮で、都農にある都農神社が一宮なのである。

 

 まず一宮の存在とその選定理由について確認したい。

 日本大百科全書 一宮の項

 古代末期に定められた神社社格の一つ。その選定時期、選定理由などについてはまだ明らかでないが、12世紀前半に成った『今昔物語』に周防国山口県)一宮玉祖大明神とみえるのが文献上の初見で、康和5年(1103)の伯耆国鳥取県倭文神社境内より出土の経筒にも一宮の字があり、およそそのころから称されたものとみられる。それも神祇官国司などによって公式に定められたものでなく、民間で唱えられ始めたものとみられている。その選定理由については近世以来諸説がある。諸国でもっとも位階の高い神社とも、また神祇官より諸国神社に伝達する際、便宜上、国ごとに一社を定めておき、そこを通じて布達させたその社の名残ともいう。あるいは国司着任の際いちばん初めに参拝した社のこと、あるいは国内でいちばん社領の寄せられていた社のことなどともいう。しかし、いずれも従いがたく、結局その国でもっとも由緒正しく、多くの信仰を集め、経済的基盤も優れていた社ということができよう。また、それも同時に全国的に生じたのではなく、古代末期から中世初頭にかけて逐次国ごとに称されたものとみられ、さらにそのころ二宮、三宮の呼称も生じた。のちに、国ごとでなく、郡内の、また、国内一地方の一宮、二宮以下を定めた例もあり、諸国の一宮も、時代の推移とともに変遷交替している場合もある。なかには伊勢国三重県)、甲斐国山梨県)、肥前国佐賀県長崎県)などのように、近世以来一宮争いをしている国もある。

 

 また他に11、12世紀以降下向しなくなった国史に代わって政務の中心となった在庁官人の神社祭祀形態として成立したという説もある。

 水谷類「国司神拝の歴史的意義」(『日本歴史』四二七号、一九八三年)

 

 都農町史では以下のような記述となっている。

 その背景を積極的に示す歴史的資料はないが、神徳の面で疫病、特にほうそうを患う者に対し、神験のある旨の伝えがあったことも一考に値するであろう。また、北の豊後から日向国に入る官道に沿い、四式内社中最も期待に位置すること、他国から船で日向国に入る場合、細島、美々津に着くが、そこから官道を少し南下した所に位置することなどの地理的条件が主因と考えられよう。 

 都農町史、1998年

 

 

 長くなったので、②へと続く

都農と似た地名

 島根県江津市に都農郷とよばれた郷があったという。完全に都農町と同じ漢字と読みである。
 現在でも地名は残っており、都野津駅という駅が山陰本線にはある。2年ほど前に通ったことはあるが、爆睡していたので覚えていない。
 都農との交流は確認出来なかった。

Google マップ

 

 高知県には津野町という自治体がある。津野という地名は以前都農にも存在した。

都農と津野② - ひょうすんぼ

 こちらも同様に都農との交流は確認出来なかった。しかし以前記事に書いたように都農には四国とりわけ高知や愛媛からの移住者が多いと思われるので、もしかしたらこの津野町から都農町に移住してきた人がいるかもしれない。

四国と都農 - ひょうすんぼ

  交流はなくても、同じ町名だからか町のPRの仕方は似ている。

だっつーの(都農町長編) - YouTube

津野だ!つーの! - 津野町観光ネット | 高知県

 

大己貴命と大国主命

 都農神社の祭神は大己貴命(別名 大国主命)ということになっている。

日向国一之宮都農神社公式ホームページ

 

 大己貴命大国主命を単純に同じ神として考えてよいのかという問題がある。古事記には大国主命の一名として大己貴命があげられていることを根拠とすることが多いが、名前が異なるというところにスッキリしないものを感じていた。しっくりくる解釈に出会ったので紹介したい。

 

 世界としては、イザナギイザナミが作りおえたわけで、オオナムチが国作りをになうことがないものとして、第八段は形づくられる。だから、オオナムチは、降臨の場面でもオオクニヌシと呼ばれることがない。「古事記」では、オオナムチは、「大国主」と呼び直された。兄弟たちを追い、地上全体を支配する神となって、国作りを完成する存在だから、そう呼ばれるのであった。いいかえれば、オオクニヌシは、「古事記」の世界の物語のなかではじめて存在したのであった。

 古事記日本書紀 (講談社現代新書) 新書 – 1999/1/20 神野志 隆光

 

 日本書紀古事記は全く別の神話だという説が議論の前提としてある。日本書紀には中国の陰陽論が思想的背景として流れていれ、古事記にはムスヒという思想が背景として流れていると神野志は考えている。

 そもそも記紀神話という形で日本書紀古事記をセットにする考え方自体が新しいもので、明治以降に作られたものである。現在も記紀をセットにする考え方は一般的だとは思うが、神野志隆光以降は学説上は区別する考え方が通説となっている。(そういう話しを聞いたので本当かどうか定かではない)

 大国主大己貴命の呼称の違いも、記紀が別の思想を背景としているものとして考えればしっくりくる。

 

https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%A5%9E%E9%87%8E%E5%BF%97-%E9%9A%86%E5%85%89/dp/4061494368/ref=la_B001I7B9WM_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1515078360&sr=1-1

四国と都農

 都農を含む児湯郡には四国とりわけ高知や愛媛からの移住者が多いように思われる。ここでいう移住者は近年の話ではなく、江戸時代以前の話である。

 柳田国男も椎葉に向かうためこの地を通った際に以下のように述べている。

 宮崎もまた純然たる新開地の町でありまして、土語方言というものだなく、諸国語の混合であります。この土地で最も勢力のあるのは、伊予の宇和地方の者であります。高鍋の北なる河南村の高原、美々津、細島地方より、西臼杵郡高千穂地方、すなわち三田井附近にも移住者がはなはだ多く、新開地の状態を呈して居るのであります。

(「柳田國男全集5巻、『九州南部地方の民風』」,柳田国男,筑摩書房,1989年)

「九州南部地方の民風」について - ひょうすんぼ

 

 また宮崎弁は豊日方言に分類され、大分県や福岡県東部の方言と近い構造になっている。豊日方言は九州の他の地域の方言と比較して本州や四国に近いものとなっている。これは豊日地域と本州や四国との交流が盛んなことの証左であろう。

 

 まだ資料不足でほとんど何もわかっていないのだが、これから調べていきたい。