ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農神社と熊野

 尾鈴山は古来から修験者の修行の地となっており、都農神社は修験者の拠点となっていた。

 

 寛正二年(一四六一)二月二五日の旦那売券(熊野那智大社文書)には日向菊池氏の一族が重代相伝してきた先達職の内容に、臼杵の「つのゝミや」などがみえ、当社は所属する臼杵郡とともに菊池氏の影響下にあった。天文年間(一五三二―五五)の神事日記(新名爪八幡宮文書)によれば、天文四年一〇月二九日、日向一宮での奇瑞に対して新名爪八幡宮(現宮崎市)の祭礼で神楽が奉納されている。当社は紀州熊野社の御師の拠点である

 日本歴史地名体系

 

 孫引きで申し訳ないのですが、都農神社が熊野の影響下にあったことが伺えます。現在の都農神社の境内に末社として熊野神社があるのはこれに由来するのでしょう。廃仏毀釈と同時に出された修験禁止令、あるいは大友宗麟の焼き討ちにより都農神社の衰微によって熊野との関係は終わったと思われます。

 なお旦那売券とは檀那売券のことで、檀家関係の売買のようなものを意味します。日向菊池氏は南北朝期に活躍した肥後の菊地氏の分家でしょうか。先達職とは山伏や修行者が山に入る際に先導する者のことを言います。