ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農神社と三輪氏

 現在の考えについては右記を参照ください。目次 - ひょうすんぼ

 明治末の都農町の地図を見ていると、都農神社周辺に三輪姓が集中している。他の地域にも三輪姓はいるものの、都農神社周辺にだけ明らかに密度が高い。

三輪 - 苗字でポン! ネットの電話帳 2012

 三輪氏といえば大和の一宮である大神神社でも有名であり、日本書紀古事記にもその名が出てくる古代ヤマトの有力な一族である。

 そんな三輪氏が何故この地に住み着いたのか、そして都農神社とどのような関係があるのか考えていきたい。

 

 ①三輪氏が何故都農に住み着いたのか

 一つには対熊襲の前線となっていたことがあげられるであろう。古代の南九州には熊襲と呼ばれる勢力が存在していた。ここでは深入りはしないが、ヤマトタケルの神話にも登場し、後に隼人と呼ばれるようになったともいう。ヤマト王権服従しない勢力に対する前線として都農は重要視されたと思われる。

 他には良馬を産する地の確保という理由があげられるだろう。日本書紀に「馬ならば日向の駒」とあるように、日向の馬は高く評価されていた。そして実際に現在の都農町にあったと思われる「都濃野馬牧」は、「延喜式兵部省の朝廷直轄の官牧となっていた。ヤマト王権の軍事力維持のためにも、都農は必要であったと思われる。

 そういった地域を確保するために、三輪氏が移住してきたのではないか。三輪氏は大神神社の関係で神職イメージが強いが、古代では新羅遠征に将軍として参加するなど軍事的力もあったと思われる。

 

 ②三輪氏と都農神社

 都農のあたりは古墳もいくつか発見されており、三輪氏移住以前に地域信仰のようなものは存在していたと思われる。三輪氏が移住してくるとその地域信仰を組み込んで、都農神社が創建されたのではないか。つまり都農神社は地域信仰の対象でもあるが、三輪氏の神社なのである。

 

 以下の記述は新しく記事にして書き直す予定なので、無視して頂きたい。

 

 塵添壒囊抄には以下のような記述がある。

 

 吐濃大明神疱瘡ヲマジナフニ、必ズイヤシ給トカヤ、カノ國ノ人ハ明神ノ御方ニ向テ、頌文シテ云。五常以汝為高、今者此物高於汝、若有懐憤、宜令平却ト唱ヘテ、杵ト云フモノヲシテ、朝ゴトニ三度アツルコト三日スレバ、疱瘡イユト云ヘリ。コトノツイデナレバシメス。

 

 この記述にあるように都農神社は古来から病気平癒の神であったと思われるが、大神神社の祭神であるオオモノヌシも病気平癒の神である。

 古代日向国の中心であり国府も置かれた妻の神社ではなく、都農神社が日向国の一宮である理由も三輪氏の影響であろう。

 なお都農神社の祭神はオオクニヌシであるが、オオクニヌシとオオモノヌシは似通ったその名から混同されることが多い。また両者は古事記では区別されているが、日本書紀では同一の神とされている。恐らく移住当初の神はオオモノヌシであったが、後にオオクニヌシへと変化したのだろう。

 

 県民大学という企画で都農神社についても取り扱うらしい。参加してみたいのだが、大学の授業が始まってしまっているので厳しそうだ。

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