都農の歴史を調べるにあたっての課題
今まで度々触れてきたと思うが、都農の歴史を調べるにあたって大きな壁が存在する。それらについて整理したい。
1、大友宗麟による焼き討ち(1578年)
島津氏に日向を追われた伊東氏を助けるべく日向に入った大友宗麟は狂信的なキリスト教信者であり、侵攻地の寺社を焼き払った。
都農もその例外ではなく、都農神社が焼き討ちにあっている。恐らく都農神社以外の大小の神社も焼き討ちにあっていただろう。焼き討ちは徹底的に行われたようで、都農神社は1617年に秋月氏の援助で再建されるまでどこにあるかもわからない状態であったという。
この焼き討ちのため1578年以前の史料が失われてしまっている。したがってこれ以前の情報は木城以南の焼き討ちにあっていない地域などの情報を参考にするしかない。
2、廃仏毀釈(1868~1874年?)
都農で廃仏毀釈があったという直接的な記述は見ていない。しかし宮崎県は全国的に見て廃仏毀釈が激しかったようで、廃仏毀釈の激しかった藩としてよく都農の所属していた高鍋藩があげられている。高鍋藩主の秋月氏の菩提寺ですら破壊され、消失している。
また都農町の隣にある川南町では廃仏毀釈のあとが明確に残っており、耳川の戦いの戦没者を慰霊するために建てられた宗麟原供養塔の地蔵が破壊されている。(大正時代に修復)
川南町 | 児湯郡 | 宮崎県 | 国指定史跡 宗麟原供養塔 | 川南町観光協会
こういった事実から都農でも廃仏毀釈は激しかったことが想定される。江戸時代の記録と照らし合わせる限り消失した寺院もいくつかあると思われる。慰霊のために建てられた地蔵でさえ破壊し、谷に投げ捨てられたのだから、文書も破棄されただろう。また神社内部でも神仏習合の痕跡が消されたであろう。
そのため明治以前の文字情報が少なくなってしまっている。
呪術信仰という観点 いただいたコメントを中心に考察
いろはすさんから尾鈴山についての記事にコメントをいただいたのですが、興味深い内容であったため個別の返信に加えて記事として取り上げたい。
コメントは大歓迎ですので、すこしでも何かコメントしたいことがあればコメントしていただけると幸いです。
尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ
なるほど。おもしろい考え方ですね〜。
古代史の見方はいろいろだと思うけど、興味深いものの一つに、932年の平安時代編集されたらしい倭名云々(省略すみません)という古書に、郷名に解読不明の文字があったそうなのですが、現存する最古の高山寺本によると、『物部』と明記されてあったのだそうです。そうすると、尾鈴山と物部郷は隣接していることになり、児湯郡において古代物部氏たちの動きが想像されます。まあなんとも言えない話ではありますが、都農神社の祀神もスサノオとか、大国主とか、饒速日とか一定しない記述もちらほらあったそうだし、白髭神社に浦島太郎が来た伝承と牛頭天王の配置から見ても、丹波の火明命、古代海部系の天孫系神を、のちの物部氏系や霊術系の信仰で封じ込めていったために、饒速日の存在や大国主の存在が必要になったのかもしれません。真相はそうした点でも藪の中ですが、興味深い先祖たちの動向は時代時代で途絶えながらも途中でリバイバルしたり、紆余曲折してあったのかもしれませんね。考え出すと想像が膨らみます。
和名云々は「和名類聚抄」のことだと思われる。
現在の佐土原付近を指していた「那珂」の異表記として「物部」が「和名類聚抄」には挙げられている。佐土原は尾鈴山とは隣接していないため、他の郷の可能性もある。
実際に都農神社の祭神について表記の揺れがあるのは確かである。しかしもとは土着の神を祭っていたと思われる。
物部氏は謎の多い氏族で、全国各地に物部郷があり、畿内のみならず地方にもある程度の勢力を持っていたと思われるが、詳しいことは不明である。
白髭神社との関連性はもっともであり、私が見落としていた視点である。白髭神社は修験道の拠点となっており、尾鈴山と同一の山系であることから修験者を通じて都農神社、尾鈴神社と白髭神社は相当の交流があったものと考えられる。
ただし白髭神社も都農神社と同じく大友宗麟の焼き討ちや廃仏毀釈の影響を受けた可能性が高く、文献資料の保存状況には期待出来ない。なおこのことについては次回詳しく記事にする。
また都農にも浦島太郎伝説は残っている。要約すると以下のようになる。
乙姫様にあたる方が「津野姫」という名で、都農と縁が深かった。そのため浦島太郎は玉手箱をもらって帰ってくる時に明田の浜に上陸したという。
浦島太郎伝説には多様な形があるが、丹波国風土記が日本の浦島太郎伝説の原型と言われている。しかし浦島太郎伝説と似たような話は中国やポリネシアなど世界各地にあり、起源は日本にはないと思われる。柳田国男の言うところの世界民俗学にも繋がる話しではあるが、今回は深くは触れない。
私に抜け落ちていたのはご指摘いただいた霊術・呪術的な視点で、何らかの呪術的な価値が都農にあった可能性も否定出来ない。呪術的な価値から都農神社が一宮になった事実や、三輪氏が都農に移住してきた理由も説明出来るかもしれない。
しかし文献資料が著しく乏しいため真相は藪の中であり、はっきりとこれだと断定出来ないかもしれない。ただわからないからこそ考察していく意義があり楽しいのだと思う。
※和名類聚抄
平安中期の漢和辞書。10巻本と20巻本とがある。
以下のリンクで読むことが出来る。
※白髭神社
川南の神社。詳しくは以下の記事を参照してください。
都農の地形
最近ブラタモリなどに代表されるように地形ブームが到来している。(?)私も地形は好きで、城や古墳の建つような見晴らしの良い台地が好きである。今回は都農町の地形について触れたい。
都農町の東部は宮崎平野の北端を占める。しかし平野部は狭く町の6割以上が山地となっており、平野といっても隆起によって洪積台地(平野が隆起した台地)となっている。そのため海岸からすぐは急な勾配となっている。(日豊本線のあたりまで)
都農町の中心部を形成する平野は都農川、心見川、名貫川の三本の川によって形成された扇状地の上に、霧島や姶良の火山灰が積もって生み出された。
表層を覆う火山灰は黒ボク土と呼ばれるもので、黒くて保水力が高く、柔らかく耕しやすい。しかしリン酸を欠乏しやすいという欠点を持っているため、植物の栽培には不向きな部分もある。そのためか江戸時代の都農の主要作物は芋であった。
一方で西部の山間部は九州山地の東部に位置しており、尾鈴山(1450m)に代表されるように山が連なっている。これらの山々は耳川の河口付近を火口としていた巨大な火山の噴石によって形成されており、大半が火成岩である。
都農の太鼓台
都農の夏祭りといえば太鼓台であるが、その太鼓台の由来についてはわからないことが多い。
各保存会では江戸末期ないし明治期に瀬戸内や上方から移入したことを言い伝えている。香川県大原野町や豊浜町ではチョウサ祭りといい、太鼓台を担いで町内を練り歩くとき「チョーサ、チョーサ」と叫ぶ(『長浜曳山祭総合調査報告書』滋賀県長浜市教育委員会・平成8年)が、宮崎県内の太鼓台伝承地の一部に、掛け声に「チョーサイ、チョーサイ」(西都市)とか「チョーサイナ、チョーサイナ」(都農町・日向市)と言うところがあり、瀬戸内や上方から伝播したと伝承していることを裏付けている。また太鼓台の形状からも三層から五層の布団屋根をしていること、台は曳かず担ぐことから車輪はないことなどからも伝承の信憑性を裏付ける。
宮崎みんなのポータルサイト miten 宮崎の情報満載 - mitenコラム
上記コラムによれば、掛け声や伝承から考えるに祭りは香川などの瀬戸内・上方由来だという。とすれば兵庫の妻鹿祭りと同じ由来であるとした以前の考察はあながち間違いでないのかもしれない。
西都原考古博物館 特別展、鹿野田神社
西都原考古博物館の特別展「豊と日向 日出る国の考古学」(18日まで)に行ってきた。
西都原考古博物館は豊日文化圏というものを想定しているようで、今回の展示はそれに則って行われたものだと思われる。豊日文化圏とは現在の大分県と宮崎県が古代においては同一の文化圏に属していたという考え方で、あまりメジャーな考え方ではない。詳しい内容については「古代日向の国」(西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKS)を参照してください。
特別展の内容は日向の国で出土した物を豊後の国で出土した物を横に並べて、縄文時代から戦国時代まで展示したものである。
解説があまり詳しくなく、展示している時代の範囲が広いため統一的にどのような考え方を示したいのかわからないのが残念である。事前に豊日文化圏という考え方を知らなければ意図がわかりづらいであろう。通常展がメッセージ性が強く、考え方がわかりやすいのに残念である。
同じく西都市にある鹿野田神社を訪れた。かなり内陸にあるにもかかわらず、井戸から潮水が出るという。飲泉用の井戸水を飲んでみたが、ほぼ海水と同じ味でかなり塩辛かった。面白い神社である。
高鍋城(舞鶴城)
高鍋城は高鍋町の中心部である平野に突出した台地の上に立っている。
高鍋藩を治めた秋月氏の居城であるが、もともとは平安時代末期に日向国一帯で権勢を誇った土持氏の居城であり、その後伊東氏、島津氏の所有を経ている。
高鍋の地はもともとは財部と呼ばれていたが、秀吉によって高鍋に改められたという。(おそらく当て字)
高鍋城は舞鶴城と呼ばれており、看板でも舞鶴城と呼称されているが、舞鶴の由来は上空から見た時に舞鶴の形に似ているからだそうだが、舞鶴城という城名は全国各地にあり流行っていたのだろう。
あまり遺構は残っていないが、曲輪や土塁、石垣が多少残っている。木が生い茂っており、眺望はあまりよくないが、木がなければ高鍋町一帯を眺めることが出来たであろう。
城下にある資料館では高鍋町の歴史がわかりやすく展示されている。中でも見どころは高鍋町近辺のジオラマで、高城の地理的重要性と耳川の戦い、根白坂の戦いがどのように展開したのかが見て取れる。
尾鈴神社
尾鈴神社に行ってきた。
尾鈴神社は木戸平あたりから東九州道をくぐってすぐの山の上にある。(恐らく荒崎山)ふもとから車で約40分だが、道が狭い箇所や岩が落ちている箇所が多々あり、道から落ちる車が何台もいるということなので、訪れるのはあまりおすすめしません。
尾鈴神社は山の中にある割には社殿も立派で、整備も行き届いている。今ではあまり訪れる人もいないが、戦前は多くの人が訪れていたという。
尾鈴山を祭った神社で、尾鈴山の山頂まで登るのは困難であるため手前の山であるこの地に舞殿として社殿が造られた。舞殿であるため以前は神楽が奉納されていたのであろうが、今は行われていない。
社殿の真裏に尾鈴山が位置するようになっているとは思うが、木が茂っていたため確認することは出来なかった。
尾鈴神社にあった石碑によれば、明治初年に火事がありその際に資料をほとんど喪失してしまったという。
明治初年に火事があったということに多少違和感を感じなくもないが、以前考察した尾鈴神社の祭神変更には大きな影響を与えたと思われる。
尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ