ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

呪術信仰という観点 いただいたコメントを中心に考察

 いろはすさんから尾鈴山についての記事にコメントをいただいたのですが、興味深い内容であったため個別の返信に加えて記事として取り上げたい。

 コメントは大歓迎ですので、すこしでも何かコメントしたいことがあればコメントしていただけると幸いです。

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

 

なるほど。おもしろい考え方ですね〜。
古代史の見方はいろいろだと思うけど、興味深いものの一つに、932年の平安時代編集されたらしい倭名云々(省略すみません)という古書に、郷名に解読不明の文字があったそうなのですが、現存する最古の高山寺本によると、『物部』と明記されてあったのだそうです。そうすると、尾鈴山と物部郷は隣接していることになり、児湯郡において古代物部氏たちの動きが想像されます。まあなんとも言えない話ではありますが、都農神社の祀神もスサノオとか、大国主とか、饒速日とか一定しない記述もちらほらあったそうだし、白髭神社に浦島太郎が来た伝承と牛頭天王の配置から見ても、丹波の火明命、古代海部系の天孫系神を、のちの物部氏系や霊術系の信仰で封じ込めていったために、饒速日の存在や大国主の存在が必要になったのかもしれません。真相はそうした点でも藪の中ですが、興味深い先祖たちの動向は時代時代で途絶えながらも途中でリバイバルしたり、紆余曲折してあったのかもしれませんね。考え出すと想像が膨らみます

 

 和名云々は「和名類聚抄」のことだと思われる。

 現在の佐土原付近を指していた「那珂」の異表記として「物部」が「和名類聚抄」には挙げられている。佐土原は尾鈴山とは隣接していないため、他の郷の可能性もある。

 実際に都農神社の祭神について表記の揺れがあるのは確かである。しかしもとは土着の神を祭っていたと思われる。

 物部氏は謎の多い氏族で、全国各地に物部郷があり、畿内のみならず地方にもある程度の勢力を持っていたと思われるが、詳しいことは不明である。

神社史料集成・都農神社

 

 白髭神社との関連性はもっともであり、私が見落としていた視点である。白髭神社修験道の拠点となっており、尾鈴山と同一の山系であることから修験者を通じて都農神社、尾鈴神社と白髭神社は相当の交流があったものと考えられる。

 ただし白髭神社も都農神社と同じく大友宗麟の焼き討ちや廃仏毀釈の影響を受けた可能性が高く、文献資料の保存状況には期待出来ない。なおこのことについては次回詳しく記事にする。

 

 また都農にも浦島太郎伝説は残っている。要約すると以下のようになる。

 乙姫様にあたる方が「津野姫」という名で、都農と縁が深かった。そのため浦島太郎は玉手箱をもらって帰ってくる時に明田の浜に上陸したという。

 浦島太郎伝説には多様な形があるが、丹波国風土記が日本の浦島太郎伝説の原型と言われている。しかし浦島太郎伝説と似たような話は中国やポリネシアなど世界各地にあり、起源は日本にはないと思われる。柳田国男の言うところの世界民俗学にも繋がる話しではあるが、今回は深くは触れない。

 

 私に抜け落ちていたのはご指摘いただいた霊術・呪術的な視点で、何らかの呪術的な価値が都農にあった可能性も否定出来ない。呪術的な価値から都農神社が一宮になった事実や、三輪氏が都農に移住してきた理由も説明出来るかもしれない。

 しかし文献資料が著しく乏しいため真相は藪の中であり、はっきりとこれだと断定出来ないかもしれない。ただわからないからこそ考察していく意義があり楽しいのだと思う。

 

※和名類聚抄

 平安中期の漢和辞書。10巻本と20巻本とがある。源順(みなもとのしたごう)著。承平4年(934)ごろ成立。漢語を意義分類し、出典を記して意味と解説を付し、字音と和訓を示す。

デジタル大辞泉

 以下のリンクで読むことが出来る。

国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻

 

白髭神社

 川南の神社。詳しくは以下の記事を参照してください。

川南の諸神社 - ひょうすんぼ