ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

吉備津神社について

 都農町史に付属している明治末の地図によると木戸平に吉備津神社跡があったということが記されている。江戸時代には村社として信仰を集めていたようだ。戦後に木戸平神社として合祀されたという記述があるのだが、どこにあるのかわからない。

 吉備津神社は吉備氏を祀る神社だ。補足しておくと、吉備氏は現在の岡山県を中心に勢力をもった氏族で、5世紀に最盛期を迎え、全国第四位の規模を誇る古墳も築造した。しかしヤマト朝廷によって勢力を削がれ、5世紀後半には勢力を分割された。日本史の教科書に登場する吉備真備が一番有名であろう。

 吉備津神社や吉備津彦神社は吉備氏の勢力があった岡山・広島・兵庫にそのほとんどがあり、宮崎県というかけ離れた土地にあるのは少し気になる。明治末の地図を見てみると木戸平には陶山という苗字の方が多い。(陶山 - 苗字でポン! ネットの電話帳 2012)陶山という苗字は、現岡山県西部である備中国小田郡陶山村が起源とされている。三輪氏と同時期に吉備氏の勢力も都農に移住してきたのかもしれないし、あるいは後世に入植してきたのかもしれない。

 

都農の方に聞きたいこと

 都農の方に聞きたいことをまとめてみました。

 このブログを都農町民の方が見てくださっているのかはわかりませんが、もし見てくださっている方がいて、以下のことについて何か知っていることがあるのであれば、教えていただけると嬉しいです。

 

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「馬韓と百済と南九州」展

 何かしら記事を書きたいと思うのだが、ネタがなくて困っている。大学で民俗学の授業があったのでとっているのだが、柳田国男の思想がメインでなかなか都農と関連させ辛い。もっとも私は民俗学よりも日本政治思想史に興味があり、柳田国男の思想にも関心をもっていたため満足しているのだが。

 

 現在西都原考古博物館で、「馬韓百済と南九州」展が開催されている。

韓国・南九州出土品見比べて、西都原考古博物館で展示 : お出かけ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 

 以前西都観光の記事にも書いたが、西都原考古博物館は独自色が強く、非稲作文化を強調しており、センセーショナルな言葉で目を引く展示がなされている。ただ子供のころは何を言っているのかよくわからず、私の親も内容を理解していなかったようだ。そのため万人受けするような展示にはなっていない。

 今回も南九州と朝鮮の結びつきという意欲的な展示だ。ヤマトを中心とした文化に対するアンチテーゼとなっているのだろう。

 中国やポリネシアと南九州の結びつきは柳田国男の「海上の道」以来注目されてきた。海流の関係で南から回ってくる船は現在の宮崎県あたりに漂着しやすいのだ。実際に江戸時代に入ってからも中国の船の漂着が度々確認されている。ところが朝鮮となると話しが変わる。朝鮮からは大回りするか、陸路を通らないと南九州に辿りつかない。いったいどのような展示がなされているのだろうか。興味深い。

都農の読み

 現在の考えについては右記を参照ください。目次 - ひょうすんぼ

 都農を「つの」と呼ぶか「つのう」と呼ぶかについてのコラムが広報つのに掲載されていた。

 

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広報つの|都農町 2011年3月号

 

 都農(つの)を以前は「つのう」と呼んでいたという話しを夏に帰ったとき聞いたのだが、一人からしか聞くことが出来なかったので確証を持てていなかった。もしかしたら南校域(南小付近のことだと思われる)の若いご婦人は、祖父母などから昔は「つのう」と呼んでいたと聞いていたのかもしれない。南小付近には町外から引っ越してくる人が多いので、漢字を素直に読んで疑問に思ったのかもしれない。

 以前私も都農の読みについての記事を書いた。もし以前「つのう」と読んでいたのなら大きな影響がある。しっかり調査したい。

「都農」の由来について - ひょうすんぼ

 

 なおコラムの方で、都農は過去の文献において「つの」と読ませていたと書いてあるが、漢字の読みまで残されることは稀である。例えば戦国時代の浅井氏を「あさい」と読むか「あざい」と読むのかは未だに決着がついていない。都農というマイナーな土地の地名の読みまで残っていたとは思えない。40点もの文献全てに読みまで記されることはないだろう。ルビをみて勘違いしたのだろう。

 また都農の字の起こりを平安時代初期としているが、続日本紀に都濃の記載があることから遅くとも奈良時代には知られていただろう。漢字の当て方も都農ではなく都濃であった。

祖父母の話し

 前回の記事の続きのようなものである。

 

 まずは祖父の話し。祖父は都農の家で生まれ、育ち、亡くなった。曾祖母に相当甘やかされて育ったらしく、お坊ちゃま気質であった。中学を出た後は家業の馬車屋を継いだが、継いだときには経営が傾いていた。そのため祖母が嫁いだあとは旭化成の工場へ働きに行ったり、車のディラーをしたりしていたが、最終的には家業を変えて暮らした。その仕事の世話は地域の名望家のような人で県議会議員だったかたに世話をしてもらったらしい。今ではあまりこういうものは見かけなくなってしまった。

 旅行などにはあまり出たがらない人で、年に一度の親族旅行では毎回駄々を捏ねていた。何故かはわからないが、常に長袖を着ていて人と一緒にお風呂に入るのも嫌がった。入れ墨をしていたわけでもないのに謎である。これといった趣味はなかったのだが、日曜大工的なことを好んでしており、家の修理をしたり自作の家具を作ったりしていた。日課として6時半に起きて体操をし、ひげそりをし、その後般若心経を唱え、神棚の前で親族一人一人の安寧を祈り、掃除をした。般若心経を唱える仏壇は私が寝る部屋にあったのだが、私が寝ていようがお構いなしに唱え始めるので、強制的に起こされた記憶がある。あまり孫を可愛がるタイプではなく、遊んでもらった記憶はない。どう接すれば良いのかわからなかったのだろう。子供ながらにそういう感じはした。

 

 次に祖母の話しである。祖母の実家は高鍋で、そこそこ裕福な家だった。高知出身の商人の家系で、曽祖父は町議会議員をしていたらしい。女学校を出たあと祖父のもとに嫁いできた。都農で一番裕福な家だと言われて嫁いで来たら違ったとぼやいていた。箸より重いものを持ったことがないと言われていたほどのお嬢様であったが、都農に来たら働かざるを得ず、布団を売り歩いたり、水道管の検査をしたりといったことをしたらしい。

 このあたりの風習なのか、子を産んで初めて籍を入れてもらえたそうだ。これといった趣味はなかったが、占いにこっていた。私が赤ちゃんのころに原因不明の熱が続いていた。これを心配した祖母が占い師に相談したところ、水神様のたたりと言われ、お祓いをすると熱が引いたらしい。タンスのなかから、テレビの上まで家のあちこちにお金をおくという謎の趣味があった。本人はお金を見つけるのが楽しいと言っていたが、よくわからない。祖母は祖父以上に孫を可愛がるということはしなかった。祖父と違い、単純に無関心であったのだろう。 

 

 

 

都農の家の話し

 都農にある祖父母の家について記事を書いてみようと思う。興味がある人はいないと思うが 笑

 

 比較的珍しい名字で全国にも1000人もいない。秋月家に仕える臣下が名乗った名字のようだ。宮崎、福岡に見られる。

 家に家系図があるような立派な家ではないので、口伝や近所の人の話しを頼りにすると4代前まで遡れた。4代前(私のひいひい婆さんにあたる)に現在の地に居を構えたようだ。祖父母ともにあまり4代前についてあまり語りたがらないので、周囲の人に聞いた話しを参考にするしかなかった。どうも4代前は曾祖母と仲が悪かったらしい。

 もともと先に述べた苗字の本家だったらしい。本家といっても大した家ではないのだが。兜を入れた箱があると祖父は言っていた。その箱は見つからないのだが、昔は武士だったのかもしれない。4代前は放蕩娘だったらしく、子を身籠った状態で家を追い出され現在の地に移り住んだ。移り住んだとはいえ本家との距離は近く、50mほどである。追い出したとはいえ心配だったのであろう。家の世話もしたのかもしれない。なお本家の方は養子をとったらしく、そのまま存続している。4代前は子を二人産んだもののの旦那はいなかったらしく、一人で育てたようだ。

 

 さて次は3代前の曽祖父母だが、曽祖父についてはあまり祖父が語りたがらず、母や叔父叔母が産まれた頃には既に亡くなっていた。そのためあやふやな情報が多い。曽祖父は曾祖母に出会うと半ば駆け落ちのような形で神戸に行ったらしい。その後すぐに都農に戻ってきて馬車屋を始めたようだ。神戸で何か技術を学んで来たのかもしれない。馬車屋は繁盛し、儲かっていたようだが、博打打ちだったらしくあまり資産を残さず亡くなってしまった。時代とともに馬車が流行らなくなったのもあるのだろう。

 曾祖母は湯ノ本の出身であったらし。姉御肌気質な人で曾祖母に会いによく人が訪れていたという。

 

 自分の親や先祖については語りたがらなかった祖父だが、自分の大叔母(4代前の妹)については良く話していた。相当可愛がってもらったのだろう。西米良の領主であった菊池氏のもとに嫁いで、菊池菊と名乗っていた。何の縁かはわからないが、見初められて嫁いだらしい。踊りがうまかったという話しが残っているので、そのためかもしれない。とはいえ嫁ぐには家格不足だったようで、佐土原藩藩士のもとに養女に入って結婚した。正妻であったのだが子を残さなかったためか、夫に先立たれたあとは都農の家に戻ってきた。年金のようなものをもらいながら都農で暮らし、都農で亡くなった。

地域おこし協力隊 ※追記あり

 都農が地域おこし協力隊を募集している。出来ることならば参加したいが、応募条件にある都農に生活拠点を移すことというのが厳しい。将来的に田舎に移住することも選択肢の一つとして考えているが、大学卒業してすぐに移住するのはまだ早い。

地域おこし協力隊を募集します|都農町

   

 地域おこし協力隊は2015年3月時点で1629名が活動しており、2016年には3000名までに拡充することを目標としている。地域で活躍する人材の獲得や起業を促し、地域の活性化を狙うものだが、ついに都農でも募集するようだ。県内では、日之影町などいくつかの市町村がすでに募集している。

 町おこしにはやる気があって能力がある人材の存在が不可欠であり、また地域に刺激を与えるという意味でも地域おこし協力隊はうってつけである。こういった取り組みは推進していくべきだとは思うが、Googleで地域おこし協力隊と調べるとサジェストに「地域おこし協力隊 失敗」と出てくる。調べてみると受け入れの用意が出来ていない自治体で失敗しているようだ。都農の募集要項を隣町である川南町の募集要項と比較すると、抽象的で具体的要件を欠いているような気がしないでもない。(具体的な要件を備えた新たな募集がなされています。)

【都農ワイン関係】地域おこし協力隊を募集します|都農町

「地域おこし協力隊」で失敗する若者が続出している件。 : まだ東京で消耗してるの?

活動詳細|地域を変えていく新しい力 地域おこし協力隊

 

 とはいえ失敗例ばかりでない。京都北部で地域おこし協力隊に参加したことがある方の話しを聞いたことがあるのだが、その方は自治体や地域に対する不満はなく良い経験になったと言っていた。都農が成功例を見習い受け入れの準備をしっかりすることを願う。

 

 一点疑問に思うのは都農ワインのPRをプレゼンすることが応募条件となっているのだが、都農ワインは先日民間企業に売却されたばかりだ。もちろん都農ワインは都農の名産の一つであってそれをPRすることに問題はない。しかしわざわざ都農ワインに絞る必要性はあったのであろうか。最近売り出し中である極トマ(トマト)でも良いし、ふぐでも良い。都農の魅力を逆に限定してしまっているような気がしてならない。

都農ワインに経営参画 エー・ピーカンパニー(東京) (宮崎日日新聞) - Yahoo!ニュース