ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

延岡の三輪神社

 都農からだと、延岡は宮崎と同じくらい遠い。ちょっとした買い物は日向や高鍋で済み、出かけるならば宮崎市まで行ってしまうため、延岡に行くことはあまりない。高穂や大分に行くときに山沿いの道を通るぐらいだ。そのため延岡のことはあまりわからないのだが、延岡に三輪神社という神社を見つけた。三輪という地区もある。

 以前「都農神社と三輪氏」という記事で、都農あたりに三輪氏が移住してきた可能性を指摘した。その関連で今回は記事を書いていきたいと思う。

 

 まず三輪神社の所在地だが、延岡の市街地からはやや外れた場所にある。五ヶ瀬川沿いの山間部に差し掛かる部分で、南九州自動車道の側だ。周囲には古墳も散見される。  以下が三輪神社の由緒である。

 

 本社は上古、大己貴命、豊葦原を巡狩して国家を経営される時、この地に来られ住まわれた、その処を青谷城山(あおぎやま)と言う。
此処に後人が命の幸魂、奇魂を祀って青谷城神社と尊称し、後に三輪大明神と号した。
吉野、天下等にも神領があり、霊験赫灼として守護されたが、余りにも村里にも離れていたため、高角折原という処に社殿を遷し、神戸神地を寄進して人々が広く厚く崇敬した。
元正天皇の御宇、大神大納言惟資卿が当国の守護となったが、三輪明神は大神氏の祖先であるので、深く本社を崇敬し、養老二年六月二十五日知門瀬前川原と言う所に宮地を卜し、神殿、拝殿、舞殿、楼門、鳥居等を修繕して大明神を遷座し、社運隆盛を極めた。依ってこの時を神社勧請の人定めたと言う。
その後、兵乱打続き、社殿も兵火に遭って焼失し、神宝、旧記等悉く烏有に帰して、久しき年月の間に野原と化してしまっていた。
三輪の里人等はこれを歎き、古の遙宮所(らんびどころ)に社殿を設けた。これが現在の三輪神社であって、明治四年大年神、宇食持命、罔象女命市杵島姫命を合祀して三輪神社と改称し、村社に列せられた。明治三十九年四月神饌幣帛料を供進すべき神社として指定された。

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 三輪神社(みわじんじゃ)

 

 この記述が正しければ、三輪神社の創建は少なくとも8世紀までは遡れる。ただ兵火により、一度信仰が失われてしまっているので、正しいかどうかはわからない。

 まず考えられるのは都農神社と同様に三輪氏が移住してきたという可能性だ。しかし以下のリンクを見ていただければわかるように、都農には異常に三輪姓が多いが、延岡には散見されるだけである。そのためこの説は説得力を欠く。

三輪 - 苗字でポン!

ネットの電話帳 2012

 

 次に考えられるのは大神氏の影響である。大神氏は三輪氏の系譜とされる氏族で、豊後国(大分)南部に勢力を持っていた。そのため地理的にも近い延岡には一定の影響力を持ったと考えられる。ただ大神氏の影響で創建されたと考えると、創建の時期が早すぎるという問題が残る。

 次に宮崎に帰ったときに三輪神社を訪れてみて、詳しく検証してみたいと思う。

縮小ニッポンの衝撃

 25日の夜のNHKスペシャル縮小ニッポンの衝撃という番組が放送された。以下のリンクでは放送の内容が良くまとめられているので、興味のある方は参照していただきたい。

news.mynavi.jp

 

 以前の「増田レポートと都農」という記事でも書いたが、都農町も近い将来現在の自治体の規模を維持し得なくなることが予想される。

 番組でも登場した夕張市雲南市を参考にして可能な限り早く対処していくしかない。幸い都農はふるさと納税の好調などもあって財政状況は安定している。余裕のあるうちにやるに越したことはない。

 近いうち木和田などの山の方の地区はなくなってしまうのだろうか。以前は分校もあったのだが、今ではなくなってしまった。木和田のあたりには山菜を採りに何度か行ったことがあるのだが、都農の中心部からでも随分と遠い。小学生はタクシーで学校に行っているらしいが、大変だろう。

 

 

www6.nhk.or.jp

都農とヤマト政権

 古代における都農とヤマトとの繋がりをまとめたメモ書きのようなものです。いよいよ記事がネタがなくなってしまった...

 

 ①古墳

 都農の海岸沿いに前方後円墳が2基確認されている。前方後円墳はヤマト政権の広がりを示す典型的なメルクマールだ。

 

 ②神話

 都農神社には、神武天皇が東遷の折に立ち寄ったという。また神功皇后新羅征討の際航海の安全を祈願したという記述もある。

 尾鈴山にある矢研の滝には神武天皇(記述によってはニギハヤヒ)が矢を研いだという記述がある。また矢研の滝の上流にはニギハヤヒが乗ってきたと云われる天磐船がある。

 

 ③史書

 続日本紀延喜式の中に都農神社が叙位されたという記述がある。日向国内では最も高い位につけられ、日向国の一宮となっている。

 官道の駅として記述のある「去飛」は都農が比定されている。

 延喜式内に登場する都濃野という馬牧は都農だと思われる。

 

 ④その他

 秦河勝が奉納したという神面が都農神社にあったようだ。大友宗麟日向国に侵攻を行った際にこの神面を避難させたという記述がある。秦河勝は渡来系の一族である秦氏の一人で、聖徳太子厩戸皇子)の側近として活躍したと言われている。

 三輪姓が都農神社近辺に集中していることから、三輪氏の移住があったと思われる。

 明治末の都農の地図で吉備津神社跡が木戸平に確認された。吉備津神社は吉備氏の神社である。吉備氏は岡山一帯に勢力をもっておりヤマト政権とも戦った。8世紀に活躍した吉備真備が有名。

 

 

高鍋大師

 高鍋大師は高鍋町の中心部から少しはずれた台地の上にある。岩岡保吉が近くにある持田古墳群に胸を痛め、750体の石像を建てた。あまり上手ではないが、不気味さと愛嬌とが両居している。台地の上にあるので、眺めも良い。

高鍋町 | 観光 | 高鍋大師 | 高鍋町観光協会

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 高鍋大師付近には持田古墳群がある。大小100基近い古墳があるのだが、昭和に入ってから大盗掘にあったため副葬品が散逸してしまっている。

 盗掘といってもならず者が行ったわけではなく、調査発掘が始まる前日に地域の住民達が行ったらしい。こういうものは流通経路が限られているので、すぐ捕まりそうなものだが、どうであったのだろう。

高千穂観光

 高千穂は天孫降臨の地として知られており、県外からの観光客も多い。もっとも熊本からの方がアクセスが良いため、熊本とセットで行く人が多いのだが... 以前は鉄道が通っていたが、台風で路線が壊れて以降廃止されているため、今は車で行くほかない。私自身も観光や熊本への通り道として何度も高千穂を訪れたことがある。

 

 ①国見ヶ丘

 高千穂の中心部から車で15分ほど登った場所にある。ここからは高千穂盆地や、阿蘇方面を一望することが出来る。阿蘇の山並みは涅槃像例えられる。写真の奥のほうに見える山並みである。(わかりにくくてすみません)  

 また秋の早朝には雲海を見ることが出来るらしい。

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 ②高千穂神社

 高千穂の中心的な神社で、源頼朝が奉納したという鉄造狛犬一対がある。古く立派なスギの木に囲まれていて、神聖な雰囲気を醸しだしている。

 夜には神楽を見に行くことが出来る。神楽を見る機会はあまりないので貴重な体験になった。

 

 ③天岩戸神社

 天岩戸神話の舞台となった地として知られる。神主さんにお清めして頂いたあとで、天岩戸を見ることも出来る。また社殿から渓流沿いを少し歩いたところに、オモイカネらが天照大御神を岩戸から出すための話し合いをした天安河原がある。(写真の一枚目)

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 良く観光客が訪れるのは天岩戸や天安河原がある先ほど紹介した西宮なのだが、橋を渡ってすぐのところに東宮がある。

 東宮は人が少ないためか、あるいは木々が生い茂っているためか、神さびた雰囲気を感じた。こちらの方にも足を伸ばすことをおすすめしたい。

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 ④高千穂峡

 五ヶ瀬川沿いに出来た峡谷で、写真に写っている真名井の滝は日本の滝百選にも選ばれている。周辺を歩いて散策することも出来るが、ボートに乗ることも出来る。また夜にはライトアップされ、幻想的な空間が広がる。

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民俗学への思い

 都農への思いと同様に民俗学への思いもいずれ書かなければならないと思っていた。これも同じように文章にするのが難しく、とりとめのないものになってしまった。

 

 民俗学者の文章に一番最初に触れたのは中学3年の時に読んだ「遠野物語」であった。夏休みの読書感想文の課題文の一つとなっていたため仕方なく読んだのだが、当時の私にとっては読みづらく途中で読むのを諦めてしまった。

 しかし高校2年のころに小林秀雄の「信じることと知ること」に引用されていた柳田国男の「山の人生」には大きな衝撃を受けた。読みやすい文章なので是非読んでいただきたい。 

 

 山に埋もれたる人生あること 

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕朽ちつつあるであろう。

 (柳田国男 青空文庫より)

 

 柳田国男の卓越した文章力によるものなのか、それとも飢餓という現実がつい最近までこの国に存在していたという事実をリアリティをもって感じたからなのかは、わからない。ただ、頭のなかに情景がはっきりとイメージされ、その情景は今でも頭から離れない。

 この文章との出会いが民俗学、というよりは柳田国男に対して興味を持つきっかけとなった。しかしこの時は一時的な関心を持ったにとどまっていた。というのも同時期に読んだ丸山真男の『「である」ことと「する」こと』にさらに大きな衝撃を受けて、関心がそちらに向いてしまったからだ。

 

 ところが大学受験で日本史を選択していた影響からか、はたまた受験期の精神的な不安定さによるものからか、受験が終わるころには寺社に興味を持つようになっていた。(余談だが、世界史・日本史選択であったためか、受験が終わるころには歴史オタクにもなっていた。)そのうち寺社を訪れるだけでは物足りなくなり、関連する本を読むようになった。そうするといつの間にか民俗学関連の本にも関心を持つようになっていた。

 一方で丸山真男に衝撃を受けて以来の政治思想についての関心も持続しており、表には出てこない民衆の思想にも興味を持つようになっていった。柄谷行人の「遊動論 柳田国男と山人」はその一助となった。

 

 こういった学術的な関心とは別に、親から都農あたりの民話を幼いころから何度も聞かされていたことや、伝統的な慣習を叩きこまれたことも大きいだろう。

 

 そういうわけで大学2年の後半ごろには民俗学に興味を持つようになり、柳田国男宮本常一を中心とした民俗学者の本を読むようになった。2年の冬に遠野を訪れたことで、自分でも何か調査したいと思うようになり、都農の調査を始めるようになって今に至る。(現在は大学3年)

 

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 写真は遠野を訪れた時のもの。河童淵と呼ばれている場所だが、あまり河童は出そうにない。遠野は思っていたよりずっと都会であった。(都農に比べれば)

 

 ※大学の学部は法学部(政治学科)であり、専門的に勉強をしているわけではない。あくまで趣味程度のものです。

 

 

 

 

 

 

都農神社の御神体

 都農神社の本来の御神体とは何だったのであろうか。町史や都農神社の方に記載がないため、現在の御神体は何なのかよくわからない。

 ただ1578年に都農に大友宗麟の軍勢が乱入した際に御神体を矢研の滝近くまで避難させたとの記述や、1878年の西南戦争の際に戦乱を危惧して御神体を避難させたという記述から推察するに、持ち運び可能な物体であると思われる。

 

 ところが以前も引用した塵添壒囊抄に興味深い記述がある。

 

 日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。(塵添壒囊抄 二十八 何口事)

 

 これによると都農神社の神様と思われる吐乃大明神が宿る吐濃ノ峯と言う峯があるようだ。吐濃ノ峯は都農にある岩山を指すと思われる。(都農で有名な尾鈴山は韜馬ノ峯として登場する。)以前はこの岩山が御神体であったのではないか。

 

 では今はその岩山はどうなっているのか。

 現在岩山は都農牧神社の中にあり、一般の人でも登れるようになっている。小さいころに行ったことがあるらしいのだが、残念ながら何も覚えていない。調べても場所が出てこずわかりにくいのだが、都農ワイナリーに行く途中にある不動の滝公園という公園の中にある。何故か町史の地図編にも載っていない。

 この都農牧神社は1725年に高鍋藩が藩営の牧の守護神として建立されてもので、比較的新しい。

 そして都農牧神社の近くで、同じ公園の中に滝神社がある。同神社は都農神社の奥宮であり、不動の滝を祀っている。建立の時期は不明だが、1392年に再建されたという記述があり、都農牧神社より歴史は古い。恐らく以前は岩山を含めて滝神社のあたりまで都農神社の敷地であったのであろう。

 つまり当初は吐濃ノ峯(岩山)を御神体としていたが、都農神社の勢力衰退ともに岩山を失い、遅くとも1578年までには物が御神体になったのではないかと考えられる。

 

 この仮説にはいくつか問題点がある。

 一つは1578年の時点での御神体が物であり、それ以前の御神体は大友宗麟の焼き払いによって資料が失われていることから実証が困難であること。

 もう一つはこの仮説の最大の論拠となっている。塵添壒囊抄の資料としての信頼性が低いことがあげられる。

 

 次に都農に帰る際に都農牧神社と滝神社に行って見ようと思う。滝神社は祭神が高龗神という貴船神社の祭神と同一なのも興味深い。