ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

「都農」の由来について ※追記

 現在の考えについては右記を参照ください。目次 - ひょうすんぼ

 都農(ツノ)という地名を見てどんなイメージを持つだろうか。

 漢字を素直に解釈すれば「農(業)の都」。いかにも地方の田舎町という感じだ。実際、漢字の意味が大まかにわかってきた子供のころの私も田舎っぽい名前だと思った。

 そんな地名はどのようにしてついたのか調べてみることにした。以下はその成果であるが、まだ調べている途中であるため、現時点での結論のようなものである。

 

 まず現在の都農の地域が歴史的にどのように呼ばれて来たのか調べてみた。

 都農神社に保管されていたであろう資料は、残念ながら大友宗麟による焼き討ちで失われてしまった。そのため16世紀以前の情報が乏しく、17世紀以降の情報が中心となる。以下の情報の出典は「都農町史」。

 

1585 上井覚兼 津野

1722 橘三喜 津野村 都農松原 都農明神腰掛

1792 高山彦三郎 津野村 都農宿

1810 伊能忠敬 都農町

1818 野田泉光院 津野町

 

1686 貞享寺社帳 都農神社 津野村 津野崎 都農牧神社 

 

 現在の都農町の中心部にあたる地域は「都農」とも「津野」とも呼ばれているようである。そして同一文中に両者の名が登場することから、両者は区別されていたものと思われる。同じ読みでは両者を区別するのは困難であるため「都農」は「トノ(ウ)」と、「津野」は「ツノ」と呼ばれていたのではないか。(何故「都農」を「トノ」と読むのかについては、後日書く予定の都農神社の祭神についての記事で述べる。」)

 ところが明治後期の地図には「津野」という地名は残っておらず、現代でも「津野」という地名は確認出来ない。

 では「津野」はどこへ行ったのか。

 この地域は18世紀までは「村」と呼ばれていたが、19世紀以降は「町」と呼ばれている。村の規模が広がったのだろう。往来が増加するにつれて、神社があるため知名度のある「都農」の名が広まったが、現地では当地のことを「ツノ」(「津野」を指して) と呼ぶ。そこで「都農」と「津野」が混ざり、町名は「都農」となったが、「ツノ」と呼ぶようになったのではないか。「津野」という地名は、その際「都農」に吸収されてしまったと思われる。

※1617年の都農神社の棟札の写しに「奉再興津野大明神社壇一宇」とかかれている。都農神社は津野神社とも呼ばれていたこととなり、上記の説は成り立たなくなった。

 

 次に「都農」という漢字の由来を考える。

 日向国古臾群に、吐濃峯と云う峯あり。神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる」 (日向国 風土記 逸文

 「吐濃峯」は都農神社裏手の岩山を指すと思われる。読みは「トノ(ウ)」であろう。

「吐濃峯」は尾鈴山です。後日考えを改めました。

 古代においては「吐濃」と呼ばれていたが、書き写し間違いあるいは省略のため「濃」は「農」変化した。そして「吐」も「都」へと変化した。この原因は不明だが、現在の西都市妻にあり都農神社と勢力を争った「都萬(ツマ)神社」も「妻萬」から変化したものであること(何の本で読んだのか忘れてしまったので後日付記します。)から流行りなり、対抗意識なりがあったのであろう。

 

 最後にまとめると

 吐濃(トノ)→都農(トノ)→都農(ツノ)←津野(ツノ)