ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

尾鈴山について 再考①尾鈴山と都農神社

 尾鈴山について以前記事を書いたが考えが変わったため再掲する。

 

 尾鈴山そのものを祭っている神社として、尾鈴神社、細神社がある。両神社とも尾鈴山の近くにあり、尾鈴山信仰が生まれるのはもっともであろう。

 今回考えるのは都農神社が尾鈴山信仰を内包しているかである。

 

 日向国古臾群に、吐濃峯と云う峯あり。神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる」 (日向国 風土記 逸文

 

 日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、弓射給ケル時、土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、男一人女一人ソ有ケル。

(塵添壒囊抄 室町時代末期)

 

 尾鈴の神は時々白馬に乗つて、山の尾を伝つてそして今の都農神社の真上あたりを飛んで、都農の浜にお参りしておられました。その時運の良い者は大空遠くに、白馬に乗られた尾鈴の神を拝むことが出来ておつたといわれております。そして尾鈴の神が虚空を飛ばれる時は、神馬の姿は明月のように、はつきりとながめられ、神馬の胸に掛けた金色の鈴の音は、馬の、いななきの声とともに天空に遠くさえわたり響いていたといわれております。天空高く神鈴を聞くので、新納山の吐乃峰の神をお鈴様と呼ぶようになつたと、これが尾鈴の名が起つた由来であると伝えられています。

 日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年)

 

 上記三資料の記述を総合すると、尾鈴山に吐濃峯があり、吐乃大明神がいたということがわかる。吐濃も吐乃も「つの」を意味するものであろう。

 都農の中心的な神社である都農神社は吐乃大明神を祭っていたと考えるのが妥当であり、それは尾鈴山に祭られた神と同じであった。

 1578年に都農に大友宗麟の軍勢が乱入した際に御神体を矢研の滝近くまで避難させたとの記述や、1878年の西南戦争の際に戦乱を危惧して御神体を避難させたとの記述がある。このことから少なくとも1578年以降は都農神社と尾鈴山の関係は切っても切れないものであることが伺える。

 

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