ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農町の誕生

1、明治維新

 1869年の版籍奉還に伴う藩政改革で現在の都農町に属する地域は川北郷都農町とされた。都農町は商店街がある地域一帯で、川北郷はそれ以外の地域だと思われる。

 その後同年10月には北庠という名で両地域は統一される。翌年にはまた北郷という名前に、さらにまた翌年には川北村という名に変わる。

 さらにそのまた翌年には地方行政区の設置に伴い都農村と川北村に分置された。

 所属する県の移り変わりなどはあるが、その後しばらくはこの状態で安定することになる。

 余談だが都農の所属する県は

高鍋県→美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県

 と激しく移り変わっている。

 

2、都農村の誕生

 1888年に県が主導して県内の町村の統合を進めることとなる。

 都農では都農町と川北村が統合をすすめる。両村長とも同一の役場で同一の戸長が行政を行っていたので、統合にあたって大きな問題はなかった。先に見たように別々の行政区としての歴史も長くはない。しかし村名については対立が生じ、当時の戸長が知名度のある都農を村名とすることとした。その名残として現在も大字川北が都農町全域で使われる。

 都農村が成立すると、初の選挙が行われ、村長が選ばれた。

 

3、都農町

 1920年には、人口の多さなどを鑑みて村から町となった。

 その後1950年代には美々津との合併運動があり、平成の大合併の際には都農、川南、高鍋、木城、新富の合併交渉があったが、いずれも上手くいかず、現在にいたるまで町域は変化していない。

 

 

 

都農の歴史⑦ 戦後

1、戦後

 戦後都農への復員者は約1300名、引揚者は約700名と合計2000名が都農に帰ってきた。しかし当時の日本は国土の荒廃と食糧難、激しいインフレに悩まされており、都農もその例外ではなかった。そのため長野、牧内、都農牧場へ入植が進められ、約200戸が入植したものの、その多くが離農した。

 GHQ主導の下行われた農地改革により、都農町内でも自作農が増加し、94%が自作農となり、戦前の二倍となった。

 1954年から57年にかけて、美々津町との合併運動が行われた。結果的には日向市と合併することになったが、この時期の都農は高校の誘致や、町立病院の設立など活気を見せていた。

 人口は1950年にピークを迎え、1万5760人となったがその後緩やかに減少し、1965年には1万3000人ほどとなる。30年ほど人口は横ばいとなっていたが、90年代に入るとまた人口減少が始まり、現在は1万人をわずかに超す程度にまで減っている。

 他に特筆すべきこととしては1977年のリニアモーターカーや1996年の都農ワイナリーの開設があげられるだろう。

 町史は1998年発行のため、それ以降のことは載っていないが、重大事項としては児湯郡内での合併交渉、道の駅つのの開設、ふるさと納税の好況や、東九州自動車道の開通などがある。

都農の歴史⑥ 近代 大正・昭和前期

1、大正時代

  大正9年に都農は村から町へと移行する。都農は児湯郡内でもっとも有権者数が多く、人口も川南と僅差の二番目であった。(町史では人口が郡内で一番とされているが誤記だと思われる。)

 さらに大正10年には日豊本線が都農まで延び、商業、農業、教育など様々な面で都農に大きな影響をもたらした。また大分県から三日月原を中心とした町内への移住が進んだという。 

 大正時代は15年と短いものの、その間に都農町の人口は1.3倍になり一万人に届くまでに増えている。自然増もあるが、県内外からの移住者が多かったようだ。

 

2、昭和前期

 昭和元年には町の人口が一万人を越えた。さらに昭和二年には県立案の開拓移民計画により、三日月原へ多くの人が移住してきた。

 しかし第一次世界大戦後の相次ぐ不況に都農もあえでいた。その中で昭和七年に失業救済事業として福浦湾での港の建設が進められ、都農港が昭和十一年に完成した。

 以降日本は戦争に突き進んでいく。戦時下の都農については以前まとめたので、そちらを参照してください。

 

戦時下の都農 - ひょうすんぼ

 

都農の歴史⑤ 近代 明治

1、明治維新の影響

 1868年の明治維新から2年後には版籍奉還が行われたものの、実体は以前と変わらなかった。しかし版籍奉還から2年後の廃藩置県により名実ともに藩政が廃止される。その後都農は美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県という経過をたどる。行政機構も目まぐるしく変化したが、1898年の郡制施工以降はほぼ今の形に落ち着いた。

 税制も変化し、収穫に応じての物納から土地賦課方式の金納となった。しかし農民からの反発は激しかったようで明治五年には一揆が起き、高鍋に4000人が集結している。ただし武力衝突は起きず、説得に応じて嘆願書の提出にとどまった。また山林の大半が官有となったが、反発が激しかったため多くは返還された。

 

2、明治時代の都農

 都農は西南戦争の影響を大きく受けた。高鍋藩から1200名が薩摩軍に味方し、都農でも人夫や物資の徴発が行われている。直接戦闘が行われることはなかったものの、官軍約2万が都農と美々津に展開し、薩摩軍と対峙したため、負担は大きかった。

 西南戦争後には好景気で商業は盛んになりつつあったが、松方デフレに伴う不況で明治の中頃は商業不振が続く。松方デフレは商人のみならず貨幣経済に組み込まれた農民に打撃を与え、小作人が増加することとなった。自作農家は3割ほどにとどまる。

 その後明治20年代に入ると商業不振は持ち直したと見られ、商社や県内最大出力蒸気機関を備えた製糖工場が建設された。しかし両者とも短期間で廃業に追い込まれた。

 また高鍋の製糸工場の盛況を見て、都農でも製糸工場を設立しようという機運が高まり、山梨に研修生が派遣された。翌年帰ってきた研修生の意見を基に当時の村の一年分の予算を遥かに上回る額を投下して製糸工場が建設された。だがこれも二年で廃業に追い込まれている。ただ全くの無駄であったわけではなく、養蚕技術が村内に普及し、戦前まで農民にとって最大の現金収入源となっていた。

 都農の貧しさや教育水準の低さを嘆く言葉がいくつか残されているが、城下町に比すると農村は当時どこも同様の状況である。むしろ児湯郡内では高鍋の次に栄えていただろう。

 人口増加は著しく明治の間に人口は約1.5倍に増え、大正元年には7595人となっている。

 

都農の歴史④ 近世

1、江戸時代

 都農は江戸時代一貫して、高鍋藩秋月氏支配下に置かれる。

 日向国高鍋領郷村高辻帳(1711年)には現在都農町に属する村々が挙げらている。寺迫村・征矢原村・長野村・瓜生村・岩山村・篠野別府村が記載され、石高は合計すると1983石8斗2升である。

 税制は定免法(過去数年の収穫から計算)がとられ、ある年の年貢率は34.1%である。この他にも穀物や銀・銭などの上納や労働力を夫役として提供しなければならなかった。

 都農は尾鈴山での林業が盛んであったためか商家が多い。都農町の町人は1838年には553人で、これは藩内の町人数の3割近くを占める。藩内において最も大きい町であった。有力な家として赤木家、塩月家、緒方家などがあげられる。

 江戸時代の都農に漁業を本業とする人はほぼいなかったが、江戸時代の末に日向の細島から一本釣りの技術を持つ専業漁師が移住してきて、福原の海岸下浜に定住した。彼等は明治時代に入ると都農の魚市場の実験を握ることとなる。

 現在都農町に属する地域の人口は約5000人ほどであったと考えられる。高鍋藩全体の人口や都農町の町人の人口がほぼ横ばいであったことを考えると、都農においても人口は横ばいであったと思われる。間引きなどは盛んに行われていたようだ。

 人口は横ばいではあるが開墾はなされていたようで、1666年には110町だった水田は1878年は478町となっており、約4倍に増えている。

 

 

都農の歴史③ 中世

1、鎌倉時代

 日向國図田帳(1197年)によると、都農は殿下御領と呼ばれる藤原氏の荘園であり、「新納院百二十丁、右児湯郡内地頭掃部頭」に含まれる。新納院とは都農を含む荘園の名で、木城・高鍋・都農・川南を中心とした地域を指す。掃部頭とは源頼朝側近の中原親能のことである。

 

2、室町時代

 九州は南朝勢力が強く、今川了俊が14世紀末に九州を平定するまで争いが激しかかった。その様子が都農の領主の変遷にも見られる。

 室町時代初頭は都農は島津氏の分家である新納氏の支配下にあった。しかし1357年には土持氏に支配が移る。さらに1457年には伊東氏が土持氏に勝利し、都農の辺りは伊東氏の支配下におかれた。

 

3、戦国時代

 伊東氏は日向国内での勢力争いを優勢にすすめるも、木崎原の戦いで島津氏に敗北して劣勢となり、1577年には都農も含めた日向国一帯は島津氏の支配下に入る。その後伊東氏は大友氏に救援を求め、それに応じた大友氏が日向国に入る。しかしその大友氏も耳川の戦いで島津氏に破れた。

 大友氏が都農を制圧した際に都農神社を焼き払ったため、戦国時代以前の都農町についての文字史料はほぼ失われてしまった。

 耳川の戦いと都農との関わりについては以前まとめたので、以下のリンクを参照してください。

耳川の戦いと都農 - ひょうすんぼ

 

 だがその島津氏も秀吉による九州征伐に破れ、1587年には秋月氏が都農も含めた高鍋藩一帯に入る。その後の関ヶ原の戦いでも秋月氏は上手く立ち回り、所領は安堵され、高鍋藩が成立する。

 

都農の歴史② 古代

1、中央政府との関わり

 律令制が整備されていく中で、国郡里制が施工された。和名類聚抄(931~938年)には児湯郡都野という記載がある。

 都農には駅(伝馬の設置場所)が設置されていたと思われる。都農の草書とよく似た「去飛駅」が都農駅に比定される。

 都農の港のほうに都農駅で使われていたという伝承が残る井戸があるが、地理を考えると都農神社付近に都農駅が置かれたと思われるので、後世の創作であろう。

 また延喜式(905年)に馬牧として「都濃野」という記述があるが、おそらくこれは都農のことであろう。

 11世紀に入ると、寄進地系荘園が広まっていく。宮崎県の県北や県央は宇佐神宮の荘園となっていたので、おそらく都農も宇佐神宮の荘園であったのだろう。

 

2、都農神社

 都農神社は837年に官社となり、843年には従五位下の位が授けられた。858年には従四位上となっている。

 延喜式神名帳(927年)では日向国内の神社で都農神社が一番神位が高く扱われており、日向国一宮となっている。

 また都萬神社との勢力争いもあったようだが、詳しい記述がなく定かではない。