ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

耳川の戦いと都農

 耳川の戦いは、最近は小丸川(高城)を耳川と誤記したのではないかということで高城川の戦いとも言う。都農でも激戦があったようだ。

 まず大友軍の南下を島津軍が都農で迎撃したのだが、すぐに破れ大友軍は高城まで進軍した。恐らくその際都農神社が焼き払われたのだろう。

 その後高城で大友軍が大敗し、敗走する。合戦の詳細については以下のリンクを参照。

佐土原城 遠侍間 -高城の合戦(天正六年)-大友記に曰く耳川の合戦

 西都への道の途上にある高城を抜けていない以上山を通っての撤退は困難で、川南、都農と撤退して行くことになる。川南には両軍の戦死者を供養するため宗麟原供養塔が建立されている。

 「島津軍記」によれば、名貫原(都農)で蒲池宗雪、竹田紹哲、吉田鑑直、臼杵統景ら300余人が切られたという。筑後、豊後の有力国人が戦死していることからも相当な被害であったのであろう。中でも蒲池氏は柳川城主で、12万石の大身であった。

 また都農の瓜生にある遍照院は大友宗麟の陣営跡と伝えられているそうだ。本堂の柱には宗麟が試し切りした傷跡が残っているという。(都農町史 1955年)しかし昭和期に改築され、この傷はなくなったそうだ。

 宗麟はキリスト教を熱心に信仰するあまり、寺社に対して敵対的で、多くの寺社を焼き払っていた。そのため寺に陣をおいたという話が本当であったか疑念は残る。

 都農と川南の町境となっている名貫川の由来は、大友軍の大将が名貫川の水量の多さを嘆いた「嘆き川」が訛ったものだとする民話もある。