ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

日向国都農町史

 「日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年

 1998年に発行された都農町史の一個前のものにあたる。現在の都農町史に比べると薄く、200ページにも満たない。記述には推論や確証のない話が多く、現在の都農町史に載っていない内容が多い。その意味では大変参考になる。

※以下太字は引用

 

 饒速日命の伝説としては、尾鈴山に残されています。尾鈴山は命が御降臨なつた所で、同山中の都農崎―吐濃崎―に現在ある、長さ三十五尺、横の最も広い所が十二尺、高さが十二尺のもので、「石舟」と言つている大きな石は、命が御降臨の時に御用いになつた天磐船であると言われております。その下手に当る矢研滝は御ほこを研がれたと伝えるところであります。

 

 矢研の滝に伝わる伝承は現在では神武天皇のものになっている。しかし根拠はないが、この饒速日命の伝承が先に存在していたのではないかと思う。ここに出てくる、都農崎は矢研の滝の上流にあると思われるが、以前行こうとした時に封鎖されていて行くことが出来なかった。

 

 考えますとき、饒速日命を尾鈴神社の祭神としたのは、日向国風土記日向国」にあって、

「この山のある所を、速日の峰と言う。昔、大神の御瓊々杵命の兄の饒速日命がこの山の峰に御降臨されたので、速日という」。

また、都農郷「神あり。都農社と号す、饒速日命を祭る所也」。

以上のような説によるものでありますが、なお、明治十五年の尾鈴神社由緒事項調書に「尾鈴山は年代によって名が変つており、最も古い書によると。日向○○「二字不明」、早日の峰は、櫛玉饒速日命を祭るとあります」。尾鈴山の古い名が、早日の峰、「速日の峰」であると言うことを考えても、その最もであることが推察されるでしょう。

昔から今までに尾鈴山を、速日の峰と呼んでおるのを他の本には見ることが出来ないけれども、その主峰を、ささが丘、またはほこの峰と言うことは、今でも村人たちは伝え言つて

おるのであります。

 

 尾鈴山の名は確かに変わっており、以前は「新納山」とも言った。「速日の峰」と言っていたことは知らなかったが、饒速日命の影響が見られる。尾鈴山を「ささが丘」、「ほこの峰」と呼んでいるのは聞いたことがないが、調査してみたい。

 また日向国風土記の記述が正しいのであれば、古代の都農神社では饒速日命を祀っていたということになる。

※ただし日向国風土記逸文には記述を確認することが出来ず。ここでいう風土記とは何なのか疑問が持たれる。

 

 

 尾鈴の神は時々白馬に乗つて、山の尾を伝つてそして今の都農神社の真上あたりを飛んで、都農の浜にお参りしておられました。その時運の良い者は大空遠くに、白馬に乗られた尾鈴の神を拝むことが出来ておつたといわれております。そして尾鈴の神が虚空を飛ばれる時は、神馬の姿は明月のように、はつきりとながめられ、神馬の胸に掛けた金色の鈴の音は、馬の、いななきの声とともに天空に遠くさえわたり響いていたといわれております。天空高く神鈴を聞くので、新納山の吐乃峰の神をお鈴様と呼ぶようになつたと、これが尾鈴の名が起つた由来であると伝えられています。

 

 ここで「新納山(尾鈴山)」に「吐乃峰」があることがわかる。都農牧神社の岩山に「吐乃峰」を比定したのは誤りであった。尾鈴山に峰はいくつかあるが、素直に考えれば一番高い山頂であると考えるのが妥当なので、「吐乃峰」は尾鈴山の山頂なのだろう。

 

 

西都について その2

1.石貫神社

 西都の市街地から米良方面に少しはずれた地にある。この周辺には神話の伝承地が密集している。地区名が三宅となっているのだが、ヤマト政権の直轄地であった屯倉がその由来だと思われる。このことがその密集と関係しているのだろうか。

 石貫の石は神社の入り口近くにあり、さほど大きくなかったため見逃してしまった。

 

 コノハナサクヤヒメの父の山の神オオヤマツミノカミを祀っています。鬼と「一晩で岩屋を完成させれば娘を嫁にやる」と約束したオオヤマツミが、鬼が完成させた岩屋から1枚抜き取って投げた石が落ちた場所と伝えられています。参道入口にはそのときの物とされる石が据えられています。

伝承地詳細47 石貫神社 西都市|100の伝承地|ひむか神話街道

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2.児湯の池

 児湯の地の由来となった池。普通の池に見えるが、泥水しかわかなかった西都で唯一真水が湧き続けた池だという。

 

 炎の中で生まれたホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)の3神の産湯に使われたところと伝えられています。
 また、この池の名が古代日向の国の児湯郡の地名の由来にもなったといわれています。

伝承地詳細39 児湯の池 西都市|100の伝承地|ひむか神話街道

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3.無戸の室

 コノハナサクヤヒメの産屋の跡。今は大木と石碑のみがある。

 

 コノハナサクヤヒメが出産のために造った産屋(うぶや)の跡と伝えられています。たった一夜で子を身ごもったことをニニギノミコトから疑われたコノハナサクヤヒメは、身の潔白を証明するため、戸の無い産屋に入り、燃えさかる炎の中で3人の皇子を生んだといわれています。

伝承地詳細38 無戸室 西都市|100の伝承地|ひむか神話街道

耳川の戦いと都農

 耳川の戦いは、最近は小丸川(高城)を耳川と誤記したのではないかということで高城川の戦いとも言う。都農でも激戦があったようだ。

 まず大友軍の南下を島津軍が都農で迎撃したのだが、すぐに破れ大友軍は高城まで進軍した。恐らくその際都農神社が焼き払われたのだろう。

 その後高城で大友軍が大敗し、敗走する。合戦の詳細については以下のリンクを参照。

佐土原城 遠侍間 -高城の合戦(天正六年)-大友記に曰く耳川の合戦

 西都への道の途上にある高城を抜けていない以上山を通っての撤退は困難で、川南、都農と撤退して行くことになる。川南には両軍の戦死者を供養するため宗麟原供養塔が建立されている。

 「島津軍記」によれば、名貫原(都農)で蒲池宗雪、竹田紹哲、吉田鑑直、臼杵統景ら300余人が切られたという。筑後、豊後の有力国人が戦死していることからも相当な被害であったのであろう。中でも蒲池氏は柳川城主で、12万石の大身であった。

 また都農の瓜生にある遍照院は大友宗麟の陣営跡と伝えられているそうだ。本堂の柱には宗麟が試し切りした傷跡が残っているという。(都農町史 1955年)しかし昭和期に改築され、この傷はなくなったそうだ。

 宗麟はキリスト教を熱心に信仰するあまり、寺社に対して敵対的で、多くの寺社を焼き払っていた。そのため寺に陣をおいたという話が本当であったか疑念は残る。

 都農と川南の町境となっている名貫川の由来は、大友軍の大将が名貫川の水量の多さを嘆いた「嘆き川」が訛ったものだとする民話もある。

川南の諸神社

1.白鬚神社

  木城との境にある。浦島太郎が最後にたどり着いたという伝承も残されている。余談だが、都農の明田にも浦島太郎伝説が残されている。御神体は後ろにある山で、修験者の修行場となっていたという。

 白鬚神社の総本山は琵琶湖畔にある。宮崎市内にも白髭神社があり、そちらは伊東氏が日向に下向した際に勧請して来たのだという。説明書きによれば825年に建立されたとのことだが、その際の祭神は土着の神で、後に(恐らく市内と同時期に)名と祭神を白髭神社猿田彦大神に改めたのではないのかと思う。ちゃんと調べておらず想像でしかないのだが。

みやざきの神話と伝承101:白鬚神社

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2.甘漬神社

 線路沿いの道にあり、恐らく木を切れば海がよく見えるであろう高台に鎮座している。神武天皇が東征の際に休息なさった地でもあり、その際になくなったさる高貴な御方を祀っているという伝承が伝わっている。

 神武東征に纏わる伝承が残っているのも興味深いが、ここに都農神社と同様に大己貴命が祀られているのも興味深い。神武東征に関する伝承を残す両神社が大己貴命を祀っているのには何かあるのであろうか。伝承を素直に解釈すれば大己貴命がさる高貴な御方となるが、神話から考えるにそれはないであろう。

米良について

 米良にはもともと東米良と西米良が存在し、東米良は現在西都市に属している。西米良は現在も西米良村として存続し、山奥にありながらも一風変わった村政で人口現象を食い止めている。

 

1.銀鏡(東米良)

 米良街道からそれて山道を10キロ弱行くと銀鏡地区に着く。銀鏡という地区名は磐長姫命の神話に由来する。

みやざきの神話と伝承101:銀鏡の地名伝説

 銀鏡地区にある銀鏡神社は国指定重要無形民俗文化財に指定された銀鏡神楽で有名である。神楽には毎年2、3000人訪れるという。

銀鏡神楽 – 西都市観光協会

 御神体が山であるためか、神社そのものは地域にあるような神社と変わらない。創建も16世紀と神話を由来とする神社としては新しい。

 行った日がお彼岸であったため、ちょうど60歳の厄除けの神事が行われていた。和弓で的を射る神事で、的に命中する度歓声があがる。もともと米良は菊地氏や米良氏といった南朝系の武士が住む地で、武士としての誇りを守るため今もなおこのような行事を行っているという。

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2.西米良

 一ツ瀬川沿いの米良街道を更に登っていくと西米良の中心地区に着く。米良の領主であった菊地氏ゆかりの資料を展示する菊地記念館に行きたかったのだが、残念ながら休館日であった。

 西米良の温泉は泉質が良いことで有名で、温泉を目当てに来る人も多い。14時ごろに訪れたのだが、駐車場は満杯であった。

 

3.小川

 小川は西米良の中心部に向かう途中で小川沿いに山へ10キロ弱登って行った場所にある地区である。かつては城があり、米良統治の中心であったようだ。

 小川作小屋村の中には小さな民俗資料館があり、地域の民俗資料が展示されている。

 小川地区にある米良神社は磐長姫命を祀っており、御神体は磐長姫命の髪であった。(洪水で流されてしまった。)磐長姫命がこの地で最期を迎えられたという逸話があるそうだ。もともとはもう少し上流にあったのだが、洪水で社が流され、現在の地に流れ着いたことから今の地にあるという。

おがわ作小屋村

詳細情報|みやざきの神話・伝説・伝承 (神話のふるさとみやざき)

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宮崎の城

 宮崎県内にある城をいくつか訪れたので、観光案内として記事にしました。

 

1.飫肥城

 百名城にも選ばれた城で、日向を代表する戦国大名伊東氏と九州を代表する戦国大名島津氏の係争地となった城です。

 現在は復元された門があるのみですが、空堀が一部残っています。正直に言うと城としての見どころはあまりません。しかし周辺には風情のある街並みが残っており、そちらの方は見応えがありました。

 また城の側に飫肥出身の小村寿太郎の記念館も新しく建設されています。

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2.佐土原城

 佐土原藩の本拠となった城です。山城ですが、江戸時代の初期には山城の方は破却され、麓に移ったようです。

 麓には鶴松館という資料館が建っています。ただし土日祝日しか開いていないので注意が必要です。(私は行けませんでした...)近くの交流センターにパンフレットや資料があるので、平日は先にそちらに寄って行くことをおすすめします。

 鶴松館の裏手に大手道があり、そこから登っていきます。道は狭く、あまり整備されていない印象を受けますが、地形は残っています。本丸は道からは想像出来ないほど広く、往時は天守があったようです。

 ※追記

続百名城に延岡城とともに選ばれました。

http://jokaku.jp/wp-content/uploads/2017/04/bf93ec3a1c5eefad5b2c6e528ade2f20.pdf

 

3.都於郡城

 佐土原城からすぐ近く5キロほどの場所にあります。戦国時代は伊東氏の居城となっていました。

 典型的な中世山城で巨大な空堀や土塁が用いられています。隣県の大分県竹田市にある岡城と見比べればその違いは一目瞭然でしょう。同じ山城の佐土原城に比べると遥かに規模が大きいです。

 近くに資料館などないですが、これだけ巨大な遺構がはっきりと残っているのは珍しく、見ごたえがありました。宮崎県内の城では一番おすすめです。

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4.高城

 以前訪れた際に記事を書いているのでそちらを引用します。文体が大分違うので違和感があるかと思いますが...

 高城は日向国の中心である現在の西都市に向かう道上に位置する要衝の地で、付近では大きな合戦が二度あった。

 一つは耳川の戦いだ。最近は小丸川の合戦や高城川の合戦と呼ばれたりもする。大友氏と島津氏との合戦が行われた戦いで、島津氏お得意の釣り野伏により大友軍が大敗した。

 もう一つは根白坂の戦いである。秀吉の九州征伐軍と島津軍との戦いで、島津軍が攻めきれず敗北し、この敗戦を受けて島津氏は秀吉に降伏した。

 このように大きな戦いの舞台になっているにもかかわらず、その知名度は低く、残念である。

 

 高城は台地の上に立っているが、それほど高い台地ではなくすぐに登ることが出来た。舌状の台地になっているため三方を崖に囲まれている。、残りの一方には何十にも堀が設けられていたようで、現在でもその遺構を確認出来る。

 城の跡地は公園になっているが、誰もいない。申し訳程度に櫓を模した時計台が建っており、上に登ると木城の中心部が一望出来た。

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 高城を降りてすぐのところにある切原川沿いの原っぱに耳川の戦い跡地がある。今は何もないが、私は戦国時代好きでもあるので、布陣を想像して楽しむことが出来た。

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 西都市方面へ4、5キロほどの丘に根白坂の戦い跡地がある。ここも今は畑となってしまって何もない。

 

 今度は高鍋にある舞鶴城にも行ってみたいと思う。

 

 

 

 

 

都農の諸神社 その二

 今後は5日に一度の更新という形で、定期的に更新していこうと思います。

 

1.瀧神社

 ワイナリーに行く途中にあります。かつては都農神社の奥宮であったようです。その名の通り、社殿の裏に滝があります。滝といっても水量は少なく水が滴り落ちる程度です。

 境内の掃除をしている方にお話しを伺うことが出来ました。その方によるとこの滝には龍神様が2匹いるとのことで、その方は毎月卵を2個奉納しているそうです。龍神に卵を奉納するのはよく見られるもので、近くでは西都の速水神社で見られます。

 

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2.都農牧神社

 瀧神社のすぐ近くにあります。この付近ではかつて馬の放牧が行われていて、その守り神としてこの神社は建立された。畜産関係者の信仰を集めているのだろう。脇に口蹄疫を受けての畜魂碑があった。

 写真ではわかりにくいのだが、社殿の奥に岩山がある。社殿の右から細い道を登って上まで行くことが出来る。都農は岩盤の上にあるとはいえ、ここまで岩盤がむき出しの場所も珍しい。岩盤が褶曲して表面に出てきているようで地層が確認出来る。岩山の上には祠がある。いくつか石碑もあったが文字を読み取ることは出来なかった。

 以前も書いたのだが、吐乃大明神が宿る吐濃ノ峯と言う峯はこの岩山ではないかと考えている。都農町内で有名な尾鈴山は韜馬ノ峯として登場する上に他に目ぼしい峰もない。瀧神社が以前都農神社の奥宮であったなら、この地が都農神社の境内に含まれていてもおかしくはない。

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