ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

尾鈴山について 再考⑤-2 尾鈴神社と廃仏毀釈

 尾鈴山は修験道の地としても知られていたようで、尾鈴山一帯には修験者が多くいたと言われている。尾鈴神社の信仰も修験者の影響を受けていてもおかしくはなく、実際貞享寺社帳によれば津野権現と呼ばれていたこともあるようである。また素盞嗚命牛頭天王の本地であり、仏教との関わりも深い。尾鈴神社は江戸時代にはかなり仏教の影響を受けた神社であったと思われる。

  そういった状況で廃仏毀釈を迎えた尾鈴神社は、嵐のような廃仏毀釈を前にして仏教との関わりを捨てざるを得なかったのではないか。そしてその際に仏教との関わりを示す素盞嗚命を祭神から降ろし、饒速日命を祭神に据えたのであろう。

 「神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈 」(岩波新書,1979年,安丸 良夫)によれば、宮崎県の廃仏毀釈は全国でもトップクラスに激しく、廃合寺された寺の割合は9割を越える。廃仏毀釈が激しかった藩の一つとして高鍋藩も挙げられていた。高鍋藩に所属していた都農町も例外ではないであろう。

 

 1955年に発行された古い都農町史には興味深い記述がある。

 明治十五年の尾鈴神社由緒事項調書に「尾鈴山は年代によって名が変つており、最も古い書によると。日向○○「二字不明」、早日の峰は、櫛玉饒速日命を祭るとあります」。尾鈴山の古い名が、早日の峰、「速日の峰」であると言うことを考えても、その最もであることが推察されるでしょう。

 「日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年

 

 廃仏毀釈は1872~74年ごろがピークであり、この尾鈴神社由緒書調書は廃仏毀釈の10年後頃に書かれたものだと思われる。少なくとも江戸末期の尾鈴神社の祭神が素盞嗚命であったにもかかわらず、それから50年もしないうちに白々しく尾鈴山は饒速日命を祭る山などと書いているのは違和感を覚える。おそらくは祭神を変えたことを正当化するため詭弁であろう。

 祭神を素盞嗚命から饒速日命へと変えるのはどういう形であれ、気が進まないであろうし、それなりの正当化の論理は必要である。そのための論理として存在の怪しい「最も古い書」などと言うものを用いて、あたかも本来の祭神は饒速日命であったかのように述べているのではないかと考えられる。

 饒速日命という祭神自体は以前述べたように修験道を通じて延岡の早日渡あたりから入ってきたものであろう。

hyousunbo.hatenablog.jp

 

 

尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈

 尾鈴山の祭神については再考を書いたばかりである。それから一ヶ月もしないうちに追加で色々述べるのは少し気が引けるが、また尾鈴山の祭神について考えたい。

尾鈴山について 再考③尾鈴山と饒速日命 - ひょうすんぼ

 

 1952年に開始された宗教法人の登記によれば尾鈴神社の祭神は饒速日命となっている。合祀された神としては素盞嗚命菅原道真が挙げられている。現在まで祭神についての変化はない。

 

 ところが江戸時代の祭神は饒速日命ではなかったようである。

 貞享寺社帳(1687年)「津野権現 本地正観音」※

 天保寺社帳(1830~44年)「尾鈴大明神神体素盞嗚命

 ※権現

 仏・菩薩が衆生を救うために、日本の神に姿をかえて、この世に現れること。また、その現れた神。本地垂迹の説から出たもので、熊野三所権現山王権現春日権現などの類。(例文 仏教語大辞典)

 この場合においては津野権現は観音様の仮のお姿という意味

 

 都農権現や尾鈴大明神といった地域の守り神を祭っていることはともかくとして、饒速日命ではなく素盞嗚命と明記されていることが注目される。

 1800年代中頃から1952年までのどこかで祭神の変化が起きたと思われる。どの期に変化が起きたかは不明であるが、おそらく明治維新後の廃仏毀釈の際に祭神の変化が起きたと思われる。

 

尾鈴神社を訪れました。

尾鈴神社 - ひょうすんぼ

都農と津野③※補足

 都農と津野は都農神社の棟札にも現れる。これをどう解釈すればよいのかが問題となるため補足を加えたい。

 

1617年 都農神社の棟札の写し「奉再興津野大明神社壇一宇

1686年 貞享寺社帳「都農神社 都農大明神」 

1736年 都農神社の棟札「奉造立都農大明神御宮一宇

   1617年から1686年の間に津野大明神から都農大明神へと呼称が変化しているようにもみえる。しかし津野大明神も都農大明神も名称からして地域の信仰の対象であり、津野村の中にある都農町の中に都農神社があることを考えると、都農神社が津野大明神と都農大明神の両者を祭神としていもおかしくはない。したがって祭神が変化したわけではなく、共存していたと考えるべきであろう。

 

※明神

 神号あるいは神の尊称。官幣・国幣の社のなかで、その祭祀が古くかつ由緒ある神を特に名神と称したが、この名神と明神を同義とする説もあるけれども、その名称の由来は異なり、名神は社を指し、明神は神を指すとみなす説もある。『延喜式』以前にも明神を用いた例はかなりあり、本来の用法にあっては、名神すなわち明神ではなかった。しかし名神と明神の区別は次第にあいまいとなり、中世以後になると、名神の称は使われなくなって、明神を用いる例が増加した。そして明神を尊んで特に大明神と称する用法がひろまった。(国史大辞典)

 

 最後にまとめると

 吐濃(トノ)→都農(トノ)→都農(ツノ)←津野(ツノ)

都農と津野②

 明治後期の地図には「津野」という地名は残っておらず、現代でも「津野」という地名は確認出来ない。聞き込みを行っても「津野」という字を目にしたことがある人は見つからなかった。

 では「津野」はどこへ行ったのか。まず「都農」と「津野」それぞれの位置を確認したい。

 明治初期の町村合併の過程を見る限り「都農町」と呼ばれていたのは、現在の商店街付近のごく一部である。(詳しくは以下のリンク参照)

都農町の誕生 - ひょうすんぼ

 橘三喜(1635~1703年)の「一宮巡詣記」を確認すると、北から来た橘三喜は津野村に入ってから都農神社に詣でて、津野村を出てから名貫川を渡っている。また高山彦三郎も名貫村から津野村まで一里(3キロ程度)と書いている。これらの記述を総合すると津野村は都農町を内包した地域であると推定される。都農神社の鳥居が都農高校付近にあったことから考えるに、都農高校から都農小学校あたりまでが範囲であろう。東西の範囲については不明だが、貞享寺社帳には津野崎明田という記述がある。

 以上のように現在の商店街付近の小さな都農町とそれを内包する津野村がというものが想定出来る。

 上記の事情を踏まえるると都農町の範囲の拡大に伴って都農町と津野村は同じ領域を指すようになり、呼称を区別必要性がなくなって、津野村という呼称が消滅したと考えることが出来るだろう。

 また津野村という呼称が検地帳からは確認出来ないことから、行政区分としての津野村は存在せず、ある地域を指す言葉として慣習的に津野村が用いられていたものと思われる。したがって容易に消滅しやすい呼称であった。

 そして津野という呼称は読み方という形で都農に吸収されていったのだろう。

 

 最後にまとめると

 吐濃(トノ)→都農(トノ)→都農(ツノ)←津野(ツノ)

 

都農と津野①

 以前書いた記事と一部内容が被る部分はありますが、大規模な修正をしました。

 

 都農(ツノ)という地名を見てどんなイメージを持つだろうか。

 漢字を素直に解釈すれば「農(業)の都」。いかにも地方の田舎町という感じだ。実際、漢字の意味が大まかにわかってきた子供のころの私も田舎っぽい名前だと思った。

 そんな地名はどのようにしてついたのか調べてみることにした。以下はその成果であるが、まだ調べている途中であるため、現時点での結論のようなものである。

 

 まず現在の都農町に該当する地域が歴史的にどのように呼ばれて来たのか調べてみた。

 都農神社に保管されていたであろう資料は、残念ながら大友宗麟による焼き討ちで失われてしまった。そのため16世紀以前の情報が乏しく、17世紀以降の情報が中心となる。以下の情報の出典は「都農町史」。

 

1585 上井覚兼 津野

1686 貞享寺社帳 都農神社 津野村 津野崎 都農牧神社 

1722 橘三喜 津野村 都農松原 都農明神腰掛

1792 高山彦三郎 津野村 都農宿

1810 伊能忠敬 都農町

1818 野田泉光院 津野町

 

 現在の 都農町には「都農」という地名も「津野」という地名も存在したようである。藩内の寺の社帳という公式の記録にも残されていることから、単なる書き間違えや外部の人の勘違いとは言えないだろう。

 同一文中に両者の名が登場することから、両者は区別されていたものと思われる。同じ読みでは両者を区別するのは困難であるため「都農」は「トノ(ウ)」と、「津野」は「ツノ」と呼ばれていたのではないかと考えられる。

 

 「津野」は「津」という漢字から明らかなように港を意識した名である。実際に都農の福浦湾は規模は小さいものの、天然の港である。都農から日南の油津までに他に天然の港がないため、福浦湾はそれなりの重要性を持っていた。

 次に「都農」という漢字の由来を考える。

 日向国古臾群に、吐濃峯と云う峯あり。神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる」 (日向国 風土記 逸文

 「吐濃峯」は尾鈴山を指すと思われる。読みは「トノ(ウ)」であろう。

 古代においては「吐濃」と呼ばれていたが、書き写し間違いあるいは省略のため「濃」は「農」変化した。そして「吐」も「都」へと変化した。この原因は不明だが、現在の西都市妻にあり都農神社と勢力を争った「都萬(ツマ)神社」の名も「妻」あるいは「妻萬」から変化したものであることから流行りなり、対抗意識なりがあったのであろう。

 まとめると吐濃→都農という変化があったと思われる。

三輪氏について

 三輪姓を持つ人が都農町に多く住んでおり、江戸時代末期や明治初期の資料を見るか限り、それなりに力をもった家であることも伺える。

 その密度は全国でも5位以内に入るほどであり、県内に他に密集地がないことから何らかの要因があると考えられる。

三輪姓が高密度分布を示す市町村の一覧表

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(日本苗字分布図鑑 http://myozi.web.fc2.com/autumn/zukan/frame/f000403.htm

 考えられるものとしては、改姓と移住があるが、私は移住してきたと考えている。

 三輪氏は大和の一宮である大神神社でも有名であり、日本書紀古事記にもその名が出てくる古代ヤマトの有力な一族である。

 大神神社の祭神は都農神社と同じ大己貴命であり、関連性がうかがえる。移住と同時に信仰も持ってきたのであろう。

 

 そのような有力な一族が何故移住してきたのかについて考えていきたい。

 ここで重要となってくるのは移住した時期である。

 三輪氏がもっとも力を持っていた5~6世紀ごろであれば、対隼人の前線を抑えるという意味合いや、馬の産地としての軍事的重要性から三輪氏が移住してきたと思われる。このときの三輪氏の移住により都農神社の祭神が大己貴命となったのならば、後に都農神社が日向の国の一宮になったのもうなずける。

 上記のような軍事的な意味での移住であれば、同時に軍事を司っていた物部系の氏族が移住してきた可能性もある。これが尾鈴山の祭神が饒速日命となったきっかけとなっているかもしれない。

 隼人の前線が南下し、また三輪氏の力も徐々に衰えていく奈良・平安時代に移住してきたのであれば、単に馬の産地としての重要性からであろう。

 それ以降の三輪氏の力が弱まって以降の移住は政治的な意味はあまり持たず、単に土地を求めただけであろう。

 

 なお「古代日向の国」(日高正晴、1993年、NHK BOOKS)によれば、都農神社には、古くから「祝」の家柄として三輪氏が仕えていたという。ただし原典は不明であり、16世紀後半の都農神社の神官は金丸氏であったことは文字資料によって確認されている。

 また日高氏は同著において、三輪山説話(大蛇の子を産む話)と祖母岳に伝わる説話との類似性を指摘し、それが朝鮮半島最北端がルーツだとする。伝承の比較から、三輪山説話は九州に伝わったのが先で、ヤマトにはそのあと伝わったのではないかという説を提唱している。

 この説によれば三輪氏の本拠地は九州となり、ヤマトからではなく祖母岳から都農あたりに移住した可能性も出てくるが、肝心の比較の部分が説得力を欠いているため有力な説とは言えないだろう。

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尾鈴山について 再考④ 尾鈴山の呼称

 4回に渡って続いた尾鈴山再考も今回で終わりにします。

 

 尾鈴山は今でこそ尾鈴山の呼称で統一されているが、以前は違ったようである。

 再考①で登場した吐濃峯もそうであるが、他にもいくつかの呼称がある。

  昔から今までに尾鈴山を、速日の峰と呼んでおるのを他の本には見ることが出来ないけれども、その主峰を、ささが丘、またはほこの峰と言うことは、今でも村人たちは伝え言つて

おるのであります。

 日向国都農町史」,都農町教育委員会, 1955年

 

 速日の峰は尾鈴神社の祭神饒速日命が由来であろう。ほこの峰は恐らく何かしらの神話か伝承が由来だと思われる。ささが丘については不明。

 

 「新編・九州の山と高原」(折元秀穂,西日本新聞社,1985年)によれば、中世において尾鈴山は新納(にいろ)山と呼ばれていたようである。

 新納の由来は新納院から来ていると思われる。新納院とは荘園のことで、現在の都農・川南・木城・高鍋・新富がそれに該当する。後に東郷なども加わった。新納院の代表的な山と言うことで新納山となったのだろう。

 

 尾鈴山と呼ばれるようになったのはいつからであろうか。江戸期に入ってからは尾鈴山の呼称で統一されている。秀吉の太閤検地による荘園の消滅により、新納院がなくなったことが、新納山と呼ばなくなる一つのきっかけにはなったと思うが、呼称が移行した正確な時期は不明。

 

 尾鈴山の呼称の由来として広く知らているのは以下の伝承である。細部が異なる伝承はあるが、大まかな構成に差は見られない。

 あるとき、雪のように白い馬が1頭交じっていた。この馬は捕らえられず、山中深く分け入って神様の馬となった。山の神は白馬に乗って都農の村里や浜辺の上を駆けた。神が大空を駆けるとき、明月のようにはっきり仰ぎ眺められたという。
 馬がいななけば鈴がシャンシャンと鳴り、鈴が鳴れば馬がいなないて鈴の音が遠くの村里まで響き渡った。馬の首には黄金色の鈴が輝いていた。このように山上はるか鈴の音が響くことから、この神様を「御鈴様」、または「尾鈴様」、その山を「御鈴山」、後に「尾鈴山」と呼ぶようになったと伝えられる。

みやざきの神話と伝承101:矢研の滝と尾鈴山

 実際にこのような出来事があったとは思えない。しかし都農には馬牧があり、それが何かしら由来になっているのであろう。