尾鈴山について 再考②信仰の起源
尾鈴山の信仰の起源は何か。
御神体を避難させたことで尾鈴山信仰が生まれたとの説も採りうるが、避難させる以前の室町時代に尾鈴山と吐乃大明神の関連性が述べられている以上説得力を欠く。
また都農神社と三輪氏との関連性から、尾鈴山を三輪山に比定するという考え方を私は以前採っていた。この説によれば、三輪氏の移住が信仰の起源となる。しかしこれも三輪山と尾鈴山を実際に登ってみると誤りであることがわかった。平地からの距離や、標高や土、傾斜など異なるところが多すぎ、比定することは困難であろう。
あまり複雑に考えずに、単に水源地としての尾鈴山に神性を感じ、自然発生的に信仰が生まれ、それが吐乃大明神として都農神社で祭られること考えてよいのではないかと現時点で私は考えている。根拠としては尾鈴山で雨乞いが行われていたことが挙げられる。
ただこの説には重大な欠陥がある。水源地としての尾鈴山に神性を感じたのならば、尾鈴山から流れる川沿いに都農神社があるのが自然だが、都農神社を流れる川は尾鈴山から流れでていない。
そうするともっと単純に考えて、一番高い山であることを信仰の理由としてもよいのだが、都農から見た時周囲の山々との高さの違いがわからないという問題もある。
あるいは柳田国男のいう祖霊信仰が起源かもしれない。
結局のところよくわからないので、確証を持てることはないであろうがそれらしき考えがまとまったら改めて記事にしたい。
尾鈴山について 再考①尾鈴山と都農神社
尾鈴山について以前記事を書いたが考えが変わったため再掲する。
尾鈴山そのものを祭っている神社として、尾鈴神社、細神社がある。両神社とも尾鈴山の近くにあり、尾鈴山信仰が生まれるのはもっともであろう。
今回考えるのは都農神社が尾鈴山信仰を内包しているかである。
「日向国古臾群に、吐濃峯と云う峯あり。神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる」 (日向国 風土記 逸文)
日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、弓射給ケル時、土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、男一人女一人ソ有ケル。
(塵添壒囊抄 室町時代末期)
尾鈴の神は時々白馬に乗つて、山の尾を伝つてそして今の都農神社の真上あたりを飛んで、都農の浜にお参りしておられました。その時運の良い者は大空遠くに、白馬に乗られた尾鈴の神を拝むことが出来ておつたといわれております。そして尾鈴の神が虚空を飛ばれる時は、神馬の姿は明月のように、はつきりとながめられ、神馬の胸に掛けた金色の鈴の音は、馬の、いななきの声とともに天空に遠くさえわたり響いていたといわれております。天空高く神鈴を聞くので、新納山の吐乃峰の神をお鈴様と呼ぶようになつたと、これが尾鈴の名が起つた由来であると伝えられています。
上記三資料の記述を総合すると、尾鈴山に吐濃峯があり、吐乃大明神がいたということがわかる。吐濃も吐乃も「つの」を意味するものであろう。
都農の中心的な神社である都農神社は吐乃大明神を祭っていたと考えるのが妥当であり、それは尾鈴山に祭られた神と同じであった。
1578年に都農に大友宗麟の軍勢が乱入した際に御神体を矢研の滝近くまで避難させたとの記述や、1878年の西南戦争の際に戦乱を危惧して御神体を避難させたとの記述がある。このことから少なくとも1578年以降は都農神社と尾鈴山の関係は切っても切れないものであることが伺える。
都農の民話
都農高校の先生が編纂した「つの町ふるさと物語」には町史に収められていない多くの民話が収録されていた。恐らく発行部数は少なく、図書館などにしか置かれていないと思われる。聞いたことがある民話と細かい点で内容が違うものも多く、その意味で参考になった。
民話の多くは都農で使われる慣用句の由来や、地名の由来などだが、河童、神武天皇関連の逸話も多かった。のほほんとした民話が多い。それだけに以前も紹介した「都農神山の白鳥」という民話で、白鳥を捕らえただけで一万もの人が死んだとされていることが異様に感じる。
明田に伝わる浦島太郎伝説や、名貫川の由来など町史には載っていないが興味深い話がいくつか載っていたので要約して載せる。
1、浦島太郎伝説
乙姫様にあたる方が「津野姫」という名で、都農と縁が深かった。そのため浦島太郎は玉手箱をもらって帰ってくる時に明田の浜に上陸したという。
2、名貫川の由来
耳川の戦い(高城川の戦い)で敗北した大友軍が敗走中に名貫川を渡ろうとしたが濁流でなかなか渡ることが出来なかった。常に浅い川だと聞いていたのにと大友軍の大将が嘆いたことから「嘆き川」となり、訛って「名貫川」になったという。
3、その他
以前紹介した猫神様には対になる犬神様がいたという話も載っていた。そのほかにも遍照院の刀傷が残っていないことも確認できた。
日向諸県君と葛城氏
1、日向諸県君と葛城氏
西都原考古博物館で特別展として「日向諸県君と葛城氏」が展示されていた。
5世紀に活躍した日向の諸県君と大和の葛城氏についての展示である。
以前紹介した「古代日向の国」という本で両者の関係についての考察がなされているのだが、同著の著者は西都原考古博物館の館長を務めた方であり、今回の展示にはその延長線上の考察が展開されているものと期待していた。
しかし本展示では諸県君と葛城氏の関係性についてはあまり踏み込んでおらず、日向がヤマト政権と関わりを持っていたという程度に濁されていて、やや期待外れであった。また通常展示で南九州の独自の文化色を強調していながら、特別展で日向とヤマト政権の関わりを示唆してしまっては、観覧者の混乱を招きかねないように思う。
川南・西都の神社
1、平田神社(川南)
川南の中心部からほど近い地にある。祭神はヤマトタケルノミコト。
ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐の際にこの地に宮が置かれたことが神社の由来となっているそうだが、都農神社と同様に大友宗麟の焼き討ちにあっているため、戦国時代以前のことはわからない。
神社に置かれている記帳を見ると毎日地域の方が訪れているようで、地域の方の信仰は厚いのであろう。またホームページも作り込まれていて驚いた。
【平田(へいだ)神社】宮崎県児湯郡川南町(こゆぐんかわみなみちょう)の神社
2、三宅神社(西都)
西都原古墳群のある台地上、日向国分寺跡付近に位置する。祭神はニニギノミコト。
かつて西都農神社とよばれていたという記述を本で見たので、今回訪れた。
市街地からはやや外れているが、地域の人たちの信仰は厚いようで、社殿と境内は綺麗であった。
三宅という名前から考えるに、屯倉(ヤマト政権の直轄地)の拠点があったのであろう。西都農神社と呼ばれていたのも「西/都農」ではなく、「西都/農」から来たのではないかと思われる。
都農の諸神社と古墳
1、都農の諸神社
以前都農の諸神社という記事を書いたが、今回は案内していただき小さな神社を中心にめぐった。
山間部の神社を除いて10社ほどを訪れた。かつて都農に子供が多かった影響なのか菅原神社が多い。菅原八坂神社という不思議な名前の神社があったが、それには由来があるそうで、教えて頂いたが、ここでは伏せる。
10世帯ほどの小規模の地区も含めてほぼ各地区毎に一つは神社があった。今でも信仰は続いているそうで、9月ごろに各神社ごとに祭りが開かれているという。土俵がある神社も散見された。
実際に確認したわけではないが、都農の神社は石を御神体としているところが多いそうだ。
リニアの実験線の終点付近にある金比羅神社は地区の神社というわけではなく、行商人の信仰を集めていたそうである。
2、都農の古墳
都農にも古墳があり、そのうちのいくつかは積石塚と呼ばれる珍しい形態をとる。
「古代日向の国」(日高正晴、1993)では、積石塚があるのは九州では都農だけで、東北アジアから影響を受けた可能性があると指摘されている。
リニアの実験線の終点付近と、龍雲寺の側にあるのだが、龍雲寺の側にあるものしか見つけられなかった。
写真のように現在はコンクリートで固められており、石を積んだ塚には見えないが、昭和11年ごろに撮影された写真を見ると、確かに石を積んだ塚となっている。
県北の山体信仰
都農の名所の一つに尾鈴山が挙げられ、その信仰も厚い。尾鈴山の関連で今回は県北の山体信仰を取りあげる。
1、速日の峰
早日渡神社において祭られている。
速日の峰は饒速日が降臨した地として伝えられており、その意味で尾鈴山との関連性を見出すことも出来る。
早日渡神社は延岡市の旧北方町にある。九州中央自動車道を降りてすぐにある道の駅北方よっちみよろ屋から、徒歩5分ほどで行ける。
2、二上山
二上神社と三ヶ所神社において祭られている。標高1000mほどの山である。天孫降臨の地として伝わる。信仰は奈良時代以前からあったようだ。天孫降臨の地であるにもかかわらず、ニニギノミコトではなくイザナギノミコト、イザナミノミコトが祭られている点は興味深い。
二上神社は高千穂町に鎮座している。高千穂から五ヶ瀬へ抜ける旧道から途中で脇道に入るとたどり着く集落を見下ろす位置に建つ。高千穂町側からの二上山信仰の地である。
二上神社 | 観光スポット | 高千穂町観光協会 | 宮崎県 高千穂の観光・宿泊・イベント情報
三ヶ所神社は五ヶ瀬町の中心部付近に鎮座している。
社殿に海馬の彫刻があることから、脳の活性化についての信仰も盛んなようである。
二上山の9合目に奥宮もあるそうだが、今回は訪れていない。