ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み⑤

5、終わりに

 以上でみてきたように、南原と折口は敗戦との向き合い方や祖先信仰については異なった見解を示したものの、両者はともに戦前から宗教と向き合い続けており、天皇人間宣言を契機としてキリスト教の影響を受けながら、神道の普遍宗教化という同一の思想を1947年という同じ時期に展開した。互いに交流することはなかったと思われる両者であるが、同じ時期に同じ思想を展開する背景があった。

 戦後70年経った今振り返ってみると、両者の切実な願いは叶わず神道は普遍宗教化することはなかった。それどころか普遍宗教を生み出そうとする運動すらほぼなかった。だが政治学民俗学のそれぞれの分野で大きな業績を残した両名が追い求めた思想の意義は現代でも失われていないであろう。

 

 もともと柳田国男を交えた三者で比較する予定であったが、三者を共通して比較出来る要素があまり多くないため断念した。ただ柳田と南原の共同体に対する認識と向き合い方にはかなり共通する部分があり、興味深い。

 

参考資料

南原繁 「文化と国家」、(『新日本文化の創造』)東京大学出版会、2007年

丸山真男著、平石直昭編「丸山眞男座談セレクション(上)」、(『戦後日本の精神革命』)岩波現代文庫、2014年

加藤節 「南原繁 -近代日本と知識人-」岩波新書、1997年

山口周三 「南原繁の生涯-信仰・思想・業績」教文館、2012年

折口信夫 「折口信夫全集 第二十巻」(『神道の新しい方向』、『神道宗教化の意義』、『民族教より人類教へ』)中央公論社、1967年

中村生雄 「折口信夫の戦後天皇論」法蔵館、1995年

柄谷行人 「遊動論 柳田国男と山人」文春新書、2014年

西田 彰一 「宗教ナショナリズム南原繁

斉藤英喜 「折口信夫の可能性へ -たたり・アマテラス・既存者をめぐって」

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み③

キリスト教との関わり

 両者ともに普遍宗教であるキリスト教との関わりが、神道の普遍宗教化を展開する背景になったと思われる。

 南原は21歳のときに内村鑑三の影響によってキリスト教無教会主義に入信し、以降も信仰を続けている。だからこそ以下のように神道を普遍宗教にしようと試みたのである。

 民族宗教的な日本神学からの解放は、単なる人文主義理想よって代置し得られるものでなく、宗教に代うるには同じく宗教をもってすべく、ここに新たに普遍人類的なる世界宗教との対決を、いまこそ国民としてまじめに遂行すべき秋であると思う。」[1]

 一方でキリスト教と無関係なように見える折口もキリスト教の影響を受けている。そもそも民俗学は江戸時代以前の国学の系譜をひいており、折口の師匠である柳田国男の父も平田派の神官であった。そして平田篤胤キリスト教の影響を大きく受けていたのである。そのためキリスト教の思想が民俗学にも流れていたと思われる。

 また折口は終戦前にキリスト牧師集団に聞いた話に大きな衝撃を受けている。

 「「アメリカの青年達は、我々と違って、この戦争にえるされむを回復する為に起された十字軍のような、非常な情熱をもち初めているかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。」[2]

 こういった経験から折口信夫神道普遍宗教化の着想を得たと思われる。

 

天皇人間宣言が与えた影響

 両者ともに天皇人間宣言によってその神格化が否定されたことを神道普遍宗教化の重要な契機としている。

 「本年初頭の詔書はすこぶる重大な歴史的意義をもつものといわなければならぬ。すなわち、天皇は「現人神」としての神格を自ら否定せられ、天皇と国民との結合の紐帯は、いまや一に人間としての相互の信頼と敬愛である。これは日本神学と神道的教義からの天皇御自身の解放、その人間性の独立の宣言である。

 それは同時に、わが国文化とわが国民の新たな「世界性」への解放と称し得るであろう。なぜならば。ここに初めて、わが国の文化がわれに特殊なる民俗的宗教的束縛を脱して、広く世界に理解せらるべき人文主義的普遍の基礎を確然と取得したのであり、国民は国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る根拠を、ほかならぬ詔書によって裏づけられたからである。」[3]

 

 「神道と宮廷とが特に結ばれて考へられて来た為に、神道は国民道徳の源泉だと考へられ、余りにも道徳的に理会されて来たのであう。この国民道徳と密接な関係のある神道が、世界の宗教になることはむつかしい。(中略)しかしながら天皇は先に御自らの「神」を否定し給うた。それにより我々は、これまでの神道と宮廷との特殊な関係を去ってしまつた、と解してよい。」[4]

 以上で引用したように神道が日本国民のみの教義から脱却して、普遍宗教になるためには天皇人間宣言は不可欠なものであったため、両名とも同様の議論を展開した。

 

[1] 南原繁 同上

[2] 折口信夫 同上

[3]南原繁 同上

[4] 折口信夫 同上『民族教より人類教へ』

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み②

4、南原と折口の比較

 ①戦前の学問的業績

まず両者の戦前の学問的業績に着目したい。

 南原は「基督教の「神の国」とプラトンの国家理念-神政政治思想の批判の為に-」(1937年)や「国家と宗教―ヨーロッパ精神史の研究―」(1942年)など、キリスト教と国家や共同体の関わりを扱った著作を残している。

 一方折口は「古代研究」(1929年)や「古代人の信仰」(1942年)などで宗教としての神道のあり方を模索している。

敗戦を意識していたわけではないであろうが、戦前から準備していたからこそ、その思想を発展させる形で神道の普遍宗教化の試みを発表することが出来た。両者とも50代後半と学者として円熟味が増していたことも無関係ではないであろう。

 

②敗戦との向き合い

 両者とも戦前の神道のあり方が敗戦につながったとする。しかしながら両者の大戦との向き合い方は微妙に異なる。

 「かようにして中日事変は起こり、太平洋戦争は開始せられ、そして遂に現在の破局と崩壊に導かれたのである。事ここに到ったのは軍閥ないし一部官僚や政治家の無知と野心からのみでなく、その由って来たるところ深く国民自身の内的欠陥にある。

それは何か。国民には熾烈な民族意識はあったが、おのおのが一個独立の人間としての人間意識の確立と人間性の発展がなかったことである。」[1]

 上記で述べているように、南原は戦争を引き起こした原因を戦前の国体や日本神学に求めている。

 一方で折口は戦争が起きた原因ではなく、戦争に負けた原因を戦前の神道に求めている。

 「神様が敗れたということは、我々が宗教的な生活をせず、我々の行為が神に対する情熱を無視し、神を汚したから神の威力が発揮出来なかった、と言うことになる。つまり、神々に対する感謝と懺悔とが、足りなかったということであると思う。」[2]

 この両者の違いは、普遍宗教の信仰のあり方にもつながる。

 「およそ人は人間性をいかに広く豊潤に生きえたとしても、それだけでは真に人間個性の自覚に到達することは不可能と考えなければならない。それには必ずや人間主観の内面をされにつきつめ、そこに横たわる自己自身の矛盾を意識し、人間を超えた超主観的な絶対精神-「神の発見」と、それによる自己克服がなされなければならない。」[3]

 このように南原は普遍宗教の信仰をあくまで人間性の発展の手段であると捉えている。だが折口は先に見たように宗教における情熱を重視したために、情熱的な信仰を生み出しうるキリストやヤハウェのような教祖を求めた。

 「宗教は自覚者が出で来ねばならぬので、そう注文通りには行かぬ。だからその教祖が現れて来なければ我々の望むような宗教が現れて来ないのは当然だ」[4]

 

[1]南原繁 「文化と国家」、(『新日本文化の創造』)東京大学出版会、2007年

[2]折口信夫 「折口信夫全集 第二十巻」『神道宗教化の意義』、中央公論社、1967年

[3] 南原繁 同上

[4] 折口信夫 同上

南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み①

1、はじめに

 本論では、南原繁折口信夫が敗戦直後の日本において行った神道普遍宗教化の試みについて比較検討する。

敗戦直後の時期に日本の思想的基軸を模索した人として他に高坂正堯ら京都学派や柳田国男などがあげられる。その中にあって南原、折口の両名は、キリスト教を参考に神道を普遍宗教化しようとするという似通った思想を展開した。政治学民俗学という異なった分野を探求する、それぞれの分野の第一人者が、似た思想に同じ時期にたどり着いた背景は興味深く、本論で探っていきたい。

 

2、南原繁神道普遍宗教化の試み

南原は1946年2月の紀元節に東大で「新日本文化の創造」と題する演説を行った。この演説の中で南原は神道普遍宗教化について述べた。以下で要約する。

 南原によれば先の大戦の原因は、国民に熾烈な民族意識がなく、おのおのが一個独立の人間としての確立と人間性への発展がなかったことにあるという。そのために人間個人が国体の観念にあてはめられ、自己判断の自由が拘束されてしまった。

 しかし敗戦後に天皇人間宣言を行ったことで神道的教義から天皇が開放され、日本の文化が特殊な民族宗教的束縛を脱することが出来た。単に開放されるだけでは人間の完成をみることは出来ない。人間主観の内面をつきつめ、人間を超えた超主観的な絶対精神すなわち「神の発見」とそれによる自己克服が必要である。そのためには新たな国民精神の創造をしなければならない。

 

3、折口信夫神道普遍宗教化の試み

 折口は1946年から1949年にかけて「民族教より人類教へ」や「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」といった論考の中で神道の普遍宗教化について考えている。以下で要約する。

 折口によれば先の大戦の敗因は、国民の宗教的情熱が足りなかったゆえに神が威力を発揮出来なかったことにあるという。そもそも戦前の神道のあり方は誤っていた。しかし天皇人間宣言によって宮廷と神道が分離され、神道が普遍宗教化する機運を得た。神道を祖先信仰から切り離して神学体系を整備し、宗教的自覚者が現れるのを待たねばならない。

 

永友司日記①

 定期更新が途絶えてしまい、申し訳ないです。

 可能な限り長く続けられるよう2週に一度の更新を目安にしばらくは続けていきたいと思います。

 

 都農神社のホームページで永友司日記が読めるようになっている。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/tunoookamisaidpage22.html

 プライベートについての日記というよりは、業務日誌のようなものとなっている。

 

 ホームページの紹介にある通り、永友司は都農神社の神主を務めたがもとは高鍋八幡宮の神主であった。

 都農神社の神主は江戸時代は代々金丸氏が務めてきた。遅くとも1578年には都農神社の神主を務めていたことは文字資料によって確認出来る。また江戸時代に神主職が金丸氏によって受け継がれていたことも文字資料によって確認出来る。金丸氏は現在、八坂神社を中心として都農町内の神社の大半の神主を務めている。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/picturepage/tunojinjyahistory.pdf

 一方永友氏は断続的にではあるものの、都農神社の神主を務めており、現職および先代の神主は永友氏となっている。

 明治に入ると、国幣社の神主は国からの任官制となった。都農神社も国幣社であるため、神主は任官制となったと思われる。

 しかし金丸氏から永友氏への神主の交代は、江戸時代末期の1862年に起きた。金丸氏の跡取りが13歳と幼年であったことが、理由となっているが、永友司日記をもとに確認したい。

  

塵添壒囊抄 考察

   2週に渡って紹介し た塵添壒囊抄の説話はどのような経緯で生まれたのであろうか。

 

 説話から伺われることは、大きく5つある。

①都農神社成立の権威付け

 神功皇后の遠征において勧請されたという形で権威づけをしている。

②航海の安全というご利益

 船の守り神として勧請されていることを見るに航海の安全というご利益があったと思われる。おそらく近隣の航海や漁にあたって尾鈴山が目印となっていたのであろう。

③疱瘡(天然痘)の大流行

 二人になってしまったというのは、過剰な表現ではあると思うが、疱瘡の大流行により人口が激減してしたことが伺える。

④疱瘡治癒のご利益

 疱瘡の流行が収束したのちに、疱瘡治癒のご利益を謳う説話が生まれたと思われる。

 また柳田国男の著作に山の背くらべをする逸話が数多く出てくるが、疱瘡と山の背くらべも同系統の逸話であり、そういった逸話の流行が都農に及んでいたことが伺える。

 

⑤東南アジア?

 「頭黒」という謎の存在が登場するが、地中から頭を出すという類型の逸話は東南アジアや台湾に見られるものであるという話しを何かで読んだ。(思い出し次第追記します)東南アジア系の逸話の流行が都農にまで及んでいたことも伺える。

 

山の背くらべ

 いざ「塵添壒囊抄」を現代語に訳してみると、どこかで見覚えがあるような気がした。気になって柳田国男の著作を漁ってみると、「日本の伝説」という著作にほぼ同じエピソードが載っていた。

 「日本の伝説」日本に伝わる伝承や伝説をある程度類型化してまとめて掲載したもので1940年に発行された。おそらく「日本伝説名彙」(伝承の辞典)をすでに企図していたのであろう。青空文庫で読めるのでリンクを貼っておいた。

 柳田国男自身は「塵袋」から引用したとしているが、「塵添壒囊抄」は「塵袋」を参照して作られたものなので、両者に差異はないと思われる。

 

もとはほんとうにあったことのように思っていた人もあったのかも知れません。そうでなくとも、よその山の高いという噂をするということは、なるたけひかえるようにしていたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじないに利用する者もありました。例えば昔日向国ひゅうがのくにの人は、ようというできものの出来た時に、吐濃峯とののみねという山に向ってこういう言葉を唱えて拝んだそうであります。私は常にあなたを高いと思っていましたが、私のでき物が今ではななたよりも高くなりました。もしお腹が立つならば、早くこのできものを引っ込ませて下さいといって、毎朝一二度ずつきねのさきをそのおできに当てると、三日めには必ず治るといっておりました。これも山の神が自分より高くなろうとする者をにくんで、急いでその杵をもってたたき伏せるように、こういう珍しい呪文じゅもんを唱えたものかと思います。(塵袋七。宮崎県児湯こゆ郡都農村)

柳田國男 日本の伝説

 

"ちりぶくろ【塵袋】",

鎌倉中期の辞書。一一巻。著者不詳(釈良胤とも)。文永・弘安(一二六四〜八八)頃の成立。事物の起源六二〇条を天象・神祇などの部門別に分類し、問答体で示したもの。後に二〇一か条が「嚢鈔(あいのうしょう)」と合体して「塵添嚢抄」となった。

 日本国語大辞典, JapanKnowledge