ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

川南の諸神社

1.白鬚神社

  木城との境にある。浦島太郎が最後にたどり着いたという伝承も残されている。余談だが、都農の明田にも浦島太郎伝説が残されている。御神体は後ろにある山で、修験者の修行場となっていたという。

 白鬚神社の総本山は琵琶湖畔にある。宮崎市内にも白髭神社があり、そちらは伊東氏が日向に下向した際に勧請して来たのだという。説明書きによれば825年に建立されたとのことだが、その際の祭神は土着の神で、後に(恐らく市内と同時期に)名と祭神を白髭神社猿田彦大神に改めたのではないのかと思う。ちゃんと調べておらず想像でしかないのだが。

みやざきの神話と伝承101:白鬚神社

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2.甘漬神社

 線路沿いの道にあり、恐らく木を切れば海がよく見えるであろう高台に鎮座している。神武天皇が東征の際に休息なさった地でもあり、その際になくなったさる高貴な御方を祀っているという伝承が伝わっている。

 神武東征に纏わる伝承が残っているのも興味深いが、ここに都農神社と同様に大己貴命が祀られているのも興味深い。神武東征に関する伝承を残す両神社が大己貴命を祀っているのには何かあるのであろうか。伝承を素直に解釈すれば大己貴命がさる高貴な御方となるが、神話から考えるにそれはないであろう。

米良について

 米良にはもともと東米良と西米良が存在し、東米良は現在西都市に属している。西米良は現在も西米良村として存続し、山奥にありながらも一風変わった村政で人口現象を食い止めている。

 

1.銀鏡(東米良)

 米良街道からそれて山道を10キロ弱行くと銀鏡地区に着く。銀鏡という地区名は磐長姫命の神話に由来する。

みやざきの神話と伝承101:銀鏡の地名伝説

 銀鏡地区にある銀鏡神社は国指定重要無形民俗文化財に指定された銀鏡神楽で有名である。神楽には毎年2、3000人訪れるという。

銀鏡神楽 – 西都市観光協会

 御神体が山であるためか、神社そのものは地域にあるような神社と変わらない。創建も16世紀と神話を由来とする神社としては新しい。

 行った日がお彼岸であったため、ちょうど60歳の厄除けの神事が行われていた。和弓で的を射る神事で、的に命中する度歓声があがる。もともと米良は菊地氏や米良氏といった南朝系の武士が住む地で、武士としての誇りを守るため今もなおこのような行事を行っているという。

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2.西米良

 一ツ瀬川沿いの米良街道を更に登っていくと西米良の中心地区に着く。米良の領主であった菊地氏ゆかりの資料を展示する菊地記念館に行きたかったのだが、残念ながら休館日であった。

 西米良の温泉は泉質が良いことで有名で、温泉を目当てに来る人も多い。14時ごろに訪れたのだが、駐車場は満杯であった。

 

3.小川

 小川は西米良の中心部に向かう途中で小川沿いに山へ10キロ弱登って行った場所にある地区である。かつては城があり、米良統治の中心であったようだ。

 小川作小屋村の中には小さな民俗資料館があり、地域の民俗資料が展示されている。

 小川地区にある米良神社は磐長姫命を祀っており、御神体は磐長姫命の髪であった。(洪水で流されてしまった。)磐長姫命がこの地で最期を迎えられたという逸話があるそうだ。もともとはもう少し上流にあったのだが、洪水で社が流され、現在の地に流れ着いたことから今の地にあるという。

おがわ作小屋村

詳細情報|みやざきの神話・伝説・伝承 (神話のふるさとみやざき)

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宮崎の城

 宮崎県内にある城をいくつか訪れたので、観光案内として記事にしました。

 

1.飫肥城

 百名城にも選ばれた城で、日向を代表する戦国大名伊東氏と九州を代表する戦国大名島津氏の係争地となった城です。

 現在は復元された門があるのみですが、空堀が一部残っています。正直に言うと城としての見どころはあまりません。しかし周辺には風情のある街並みが残っており、そちらの方は見応えがありました。

 また城の側に飫肥出身の小村寿太郎の記念館も新しく建設されています。

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2.佐土原城

 佐土原藩の本拠となった城です。山城ですが、江戸時代の初期には山城の方は破却され、麓に移ったようです。

 麓には鶴松館という資料館が建っています。ただし土日祝日しか開いていないので注意が必要です。(私は行けませんでした...)近くの交流センターにパンフレットや資料があるので、平日は先にそちらに寄って行くことをおすすめします。

 鶴松館の裏手に大手道があり、そこから登っていきます。道は狭く、あまり整備されていない印象を受けますが、地形は残っています。本丸は道からは想像出来ないほど広く、往時は天守があったようです。

 ※追記

続百名城に延岡城とともに選ばれました。

http://jokaku.jp/wp-content/uploads/2017/04/bf93ec3a1c5eefad5b2c6e528ade2f20.pdf

 

3.都於郡城

 佐土原城からすぐ近く5キロほどの場所にあります。戦国時代は伊東氏の居城となっていました。

 典型的な中世山城で巨大な空堀や土塁が用いられています。隣県の大分県竹田市にある岡城と見比べればその違いは一目瞭然でしょう。同じ山城の佐土原城に比べると遥かに規模が大きいです。

 近くに資料館などないですが、これだけ巨大な遺構がはっきりと残っているのは珍しく、見ごたえがありました。宮崎県内の城では一番おすすめです。

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4.高城

 以前訪れた際に記事を書いているのでそちらを引用します。文体が大分違うので違和感があるかと思いますが...

 高城は日向国の中心である現在の西都市に向かう道上に位置する要衝の地で、付近では大きな合戦が二度あった。

 一つは耳川の戦いだ。最近は小丸川の合戦や高城川の合戦と呼ばれたりもする。大友氏と島津氏との合戦が行われた戦いで、島津氏お得意の釣り野伏により大友軍が大敗した。

 もう一つは根白坂の戦いである。秀吉の九州征伐軍と島津軍との戦いで、島津軍が攻めきれず敗北し、この敗戦を受けて島津氏は秀吉に降伏した。

 このように大きな戦いの舞台になっているにもかかわらず、その知名度は低く、残念である。

 

 高城は台地の上に立っているが、それほど高い台地ではなくすぐに登ることが出来た。舌状の台地になっているため三方を崖に囲まれている。、残りの一方には何十にも堀が設けられていたようで、現在でもその遺構を確認出来る。

 城の跡地は公園になっているが、誰もいない。申し訳程度に櫓を模した時計台が建っており、上に登ると木城の中心部が一望出来た。

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 高城を降りてすぐのところにある切原川沿いの原っぱに耳川の戦い跡地がある。今は何もないが、私は戦国時代好きでもあるので、布陣を想像して楽しむことが出来た。

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 西都市方面へ4、5キロほどの丘に根白坂の戦い跡地がある。ここも今は畑となってしまって何もない。

 

 今度は高鍋にある舞鶴城にも行ってみたいと思う。

 

 

 

 

 

高鍋大師

 高鍋大師は高鍋町の中心部から少しはずれた台地の上にある。岩岡保吉が近くにある持田古墳群に胸を痛め、750体の石像を建てた。あまり上手ではないが、不気味さと愛嬌とが両居している。台地の上にあるので、眺めも良い。

高鍋町 | 観光 | 高鍋大師 | 高鍋町観光協会

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 高鍋大師付近には持田古墳群がある。大小100基近い古墳があるのだが、昭和に入ってから大盗掘にあったため副葬品が散逸してしまっている。

 盗掘といってもならず者が行ったわけではなく、調査発掘が始まる前日に地域の住民達が行ったらしい。こういうものは流通経路が限られているので、すぐ捕まりそうなものだが、どうであったのだろう。

高千穂観光

 高千穂は天孫降臨の地として知られており、県外からの観光客も多い。もっとも熊本からの方がアクセスが良いため、熊本とセットで行く人が多いのだが... 以前は鉄道が通っていたが、台風で路線が壊れて以降廃止されているため、今は車で行くほかない。私自身も観光や熊本への通り道として何度も高千穂を訪れたことがある。

 

 ①国見ヶ丘

 高千穂の中心部から車で15分ほど登った場所にある。ここからは高千穂盆地や、阿蘇方面を一望することが出来る。阿蘇の山並みは涅槃像例えられる。写真の奥のほうに見える山並みである。(わかりにくくてすみません)  

 また秋の早朝には雲海を見ることが出来るらしい。

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 ②高千穂神社

 高千穂の中心的な神社で、源頼朝が奉納したという鉄造狛犬一対がある。古く立派なスギの木に囲まれていて、神聖な雰囲気を醸しだしている。

 夜には神楽を見に行くことが出来る。神楽を見る機会はあまりないので貴重な体験になった。

 

 ③天岩戸神社

 天岩戸神話の舞台となった地として知られる。神主さんにお清めして頂いたあとで、天岩戸を見ることも出来る。また社殿から渓流沿いを少し歩いたところに、オモイカネらが天照大御神を岩戸から出すための話し合いをした天安河原がある。(写真の一枚目)

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 良く観光客が訪れるのは天岩戸や天安河原がある先ほど紹介した西宮なのだが、橋を渡ってすぐのところに東宮がある。

 東宮は人が少ないためか、あるいは木々が生い茂っているためか、神さびた雰囲気を感じた。こちらの方にも足を伸ばすことをおすすめしたい。

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 ④高千穂峡

 五ヶ瀬川沿いに出来た峡谷で、写真に写っている真名井の滝は日本の滝百選にも選ばれている。周辺を歩いて散策することも出来るが、ボートに乗ることも出来る。また夜にはライトアップされ、幻想的な空間が広がる。

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宇納間の地蔵

 宇納間(うなま)の地蔵は美郷町の北郷地区の中心地にある。以前から思っていたのだが、宮崎には東西南北+郷の地名が多くややこしい。北郷が南郷の南にあったり、南郷が2つあったりとよくわからないことになっている。 美郷町は10年ほど前に南郷村西郷村・北郷村が合併して生まれた。

 宇納間の地蔵には祖母が何度も参りに行っており、どんなとこなのだろうと思っていた。都農から車で一時間ほどかかるが、都農から参る人は多い。椎葉に行く際の通り道沿いにあったので、寄ってみた。

 地蔵は平安末期に奉納されたものだそうで、永らく地域信仰の中心となっていた。江戸後期の大火の際に延岡藩の藩邸が延焼しそうになったのだが、その際にこの地蔵にお祈りしたところ延焼を免れたという言い伝えがある。それ以降防火の地蔵として周辺一帯からも信仰を集めるようになったようだ。詳しくは以下のリンクを参照していただきたい。

みやざきの神話と伝承101:宇納間の火伏地蔵

 

 365段の長い階段を登るとお堂にたどり着く。たどり着いてから知ったのだが、地蔵様は60年に一度しか見ることが出来ないらしい。御記帳を見ていると宮崎県内各地からの参拝者がおり、信仰が広範囲に広がっていることが伺える。交通のアクセスが悪い場所であるにも関わらず、何人もの人すれ違った。

 お堂のある場所は高台になっていて、川沿いに細長く広がる集落を眺める事が出来る。

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宮崎南部の観光

 ①青島

 青島には何度も来たことがある。宮崎空港から近く、アクセスがいい。バブルの頃は新婚旅行などで観光客が多く、賑わっていたようだ。青島のビーチで泳ぐことも出来るが波はないので、サーファーは近くの木崎ヶ浜に行く。

 青島は海幸山幸の神話の舞台となったと云われる場所で、江戸時代までは神域となっており、入れなかったそうだ。今はいつでも入れるようになっている。イメージとしては南国の江ノ島といった感じであろうか。

 温泉や植物園などがあり、周辺は観光地として整備されている。

 

 ②鬼の洗濯岩

 青島の南には鬼の洗濯岩と呼ばれる波状岩が広がっている。写真は道の駅からとったもの。

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 ③鵜戸神宮

 豊玉姫が産屋を建てた場所と言われている。子供のころに何度か来たことがある。余談だが子供のころは鵜戸の意味がわからず、ウド鈴木の関連だと思っていた。

 豊玉姫が乗ってきた亀石というものがあり、それに玉を投げると願いが叶うと言われているが、男性は左手で投げなければならず、入れられなかった。

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 ④都井岬

 都井岬は宮崎の南端にある。とおい岬と揶揄されるだけあって、遠い。都農からは車で2時間半ほどかかる。とはいえ都井岬への道は海沿いで、ドライブにはもってこいだ。日南からの道も綺麗になっていて、走りやすい。

 野生の馬があちこちを歩いている。都井岬のあたりは都農を治めていた高鍋藩の飛び地で、高鍋藩が放牧した馬が野生化し、現在まで続いている。馬・草原・海のコントラストは美しかった。

 一応岬でもあるので奥には灯台があり、志布志湾や太平洋を一望できる。

 遠くても来たかいがあったと思える場所だ。

 

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