ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

西都原考古博物館 特別展、鹿野田神社

 西都原考古博物館の特別展「豊と日向 日出る国の考古学」(18日まで)に行ってきた。

 西都原考古博物館は豊日文化圏というものを想定しているようで、今回の展示はそれに則って行われたものだと思われる。豊日文化圏とは現在の大分県と宮崎県が古代においては同一の文化圏に属していたという考え方で、あまりメジャーな考え方ではない。詳しい内容については「古代日向の国」(西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKS)を参照してください。

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 特別展の内容は日向の国で出土した物を豊後の国で出土した物を横に並べて、縄文時代から戦国時代まで展示したものである。

 解説があまり詳しくなく、展示している時代の範囲が広いため統一的にどのような考え方を示したいのかわからないのが残念である。事前に豊日文化圏という考え方を知らなければ意図がわかりづらいであろう。通常展がメッセージ性が強く、考え方がわかりやすいのに残念である。

 

 同じく西都市にある鹿野田神社を訪れた。かなり内陸にあるにもかかわらず、井戸から潮水が出るという。飲泉用の井戸水を飲んでみたが、ほぼ海水と同じ味でかなり塩辛かった。面白い神社である。

鹿野田神社(かのだ神社)|宮崎県西都市

 

高鍋城(舞鶴城)

 高鍋城は高鍋町の中心部である平野に突出した台地の上に立っている。

 高鍋藩を治めた秋月氏の居城であるが、もともとは平安時代末期に日向国一帯で権勢を誇った土持氏の居城であり、その後伊東氏、島津氏の所有を経ている。

 高鍋の地はもともとは財部と呼ばれていたが、秀吉によって高鍋に改められたという。(おそらく当て字)

 高鍋城は舞鶴城と呼ばれており、看板でも舞鶴城と呼称されているが、舞鶴の由来は上空から見た時に舞鶴の形に似ているからだそうだが、舞鶴城という城名は全国各地にあり流行っていたのだろう。

 あまり遺構は残っていないが、曲輪や土塁、石垣が多少残っている。木が生い茂っており、眺望はあまりよくないが、木がなければ高鍋町一帯を眺めることが出来たであろう。

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 城下にある資料館では高鍋町の歴史がわかりやすく展示されている。中でも見どころは高鍋町近辺のジオラマで、高城の地理的重要性と耳川の戦い、根白坂の戦いがどのように展開したのかが見て取れる。

 

 

尾鈴神社

 尾鈴神社に行ってきた。

 尾鈴神社は木戸平あたりから東九州道をくぐってすぐの山の上にある。(恐らく荒崎山)ふもとから車で約40分だが、道が狭い箇所や岩が落ちている箇所が多々あり、道から落ちる車が何台もいるということなので、訪れるのはあまりおすすめしません。

 

 尾鈴神社は山の中にある割には社殿も立派で、整備も行き届いている。今ではあまり訪れる人もいないが、戦前は多くの人が訪れていたという。

 尾鈴山を祭った神社で、尾鈴山の山頂まで登るのは困難であるため手前の山であるこの地に舞殿として社殿が造られた。舞殿であるため以前は神楽が奉納されていたのであろうが、今は行われていない。

 社殿の真裏に尾鈴山が位置するようになっているとは思うが、木が茂っていたため確認することは出来なかった。

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 尾鈴神社にあった石碑によれば、明治初年に火事がありその際に資料をほとんど喪失してしまったという。

 明治初年に火事があったということに多少違和感を感じなくもないが、以前考察した尾鈴神社の祭神変更には大きな影響を与えたと思われる。

尾鈴山について 再考⑤-1 尾鈴神社と廃仏毀釈 - ひょうすんぼ

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生目

 宮崎市の市街地からほど近くにある生目地区を訪れた。

 

①生目神社

 生目という名から明らかなように眼病にご利益があるとされている。平日に訪れたのだが、参拝客が他に幾人かおり、信仰を集めていることが伺えた。

 宇佐神宮の荘園管理のため八幡神勧進したのが始まりとされるが、明治に入るころに八幡神は祭神ではなくなっている。生目の由来については藤原景清の眼を祭ったという説や眼病のご利益があるからなどいくつかの説があるようである。

生目神社

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②生目古墳

 訪れた際には近くの生目の杜運動公園ソフトバンクホークスがキャンプを行っており、その臨時駐車場ともなっていた。

 古墳は西都原古墳群と同じく台地の上にある。その麓には遊古館という博物館兼体験スペースがあり、勾玉づくりなどが出来るようになっていた。

 西都原古墳群とは異なり古墳の上に登れることが目玉となっている。しかし九州最大の前方後円墳である3号墳には登ることが出来ても、雑木林のようになっているため、なかなか全容がつかみにくい。ただ3号墳からみた7号墳ははっきり前方後円の形が視認出来た。また5号墳は当時を再現して石を瓦のようにして墳丘を覆っており見応えがあった。

生目古墳群史跡公園 - 宮崎市

 

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都農神社と熊野

 尾鈴山は古来から修験者の修行の地となっており、都農神社は修験者の拠点となっていた。

 

 寛正二年(一四六一)二月二五日の旦那売券(熊野那智大社文書)には日向菊池氏の一族が重代相伝してきた先達職の内容に、臼杵の「つのゝミや」などがみえ、当社は所属する臼杵郡とともに菊池氏の影響下にあった。天文年間(一五三二―五五)の神事日記(新名爪八幡宮文書)によれば、天文四年一〇月二九日、日向一宮での奇瑞に対して新名爪八幡宮(現宮崎市)の祭礼で神楽が奉納されている。当社は紀州熊野社の御師の拠点である

 日本歴史地名体系

 

 孫引きで申し訳ないのですが、都農神社が熊野の影響下にあったことが伺えます。現在の都農神社の境内に末社として熊野神社があるのはこれに由来するのでしょう。廃仏毀釈と同時に出された修験禁止令、あるいは大友宗麟の焼き討ちにより都農神社の衰微によって熊野との関係は終わったと思われます。

 なお旦那売券とは檀那売券のことで、檀家関係の売買のようなものを意味します。日向菊池氏は南北朝期に活躍した肥後の菊地氏の分家でしょうか。先達職とは山伏や修行者が山に入る際に先導する者のことを言います。

何故都農神社が一宮なのか②

日本三代実録』天安2年10月22日己酉条(858)

日向国従五位上高智保神。都農神等従四位上従五位上都万神。江田神。霧島神並従四位下
 
 日本三代実録によれば9世紀半ばには既に、都農神社と都萬神社の間に差がついている。11世紀、12世紀から日向国の有力者は土持氏へと移っていくが、9世紀時点での有力者は妻を拠点とする日下部氏である。

 以上でみてきたのように一宮の選定理由はわかっていないのが、実情ではある。都萬神社は恐らく地理と神官からみて、古代において日向国で最も力を持っていた日下部氏の信仰を集めていたはずである。日下部氏に対抗しうる有力な氏族が都農にいたとは思えない。したがって民衆の信仰を最も集めたのが都農神社であったのだろう。

 信仰を集めた理由は定かではないが、町史の言うように疱瘡が治るというご利益があったのかもしれない。あるいは雨乞いなのか、修験道なのかもしれないが、大友宗麟の焼き討ちで戦国時代以前の都農の資料はほとんど存在しないため詳しいことはわからない。

 現在では都農神社の方が都萬神社より栄えているように見えるが、「日本の神々 神社と聖地 1九州」(谷川健一)によれば中世以降は都萬神社の方が広く崇敬を集めていたようである。また所領も圧倒的都萬神社の方が大きい。都農神社が都萬神社より広く信仰を集めたのは平安時代の後半のごく一時期だけだと思われる。

何故都農神社が一宮なのか①

 都農神社が一宮であることは一つ大きな問題である。

 都農の属する日向国では古代から近世まで現在の西都市妻のあたりを中心に栄えていた。西都原古墳群の規模は全国有数であり、都農の古墳群は比較にならない。国府国分寺なども妻におかれ、戦国時代日向を支配した伊東氏も妻からほど近い丘にある都於郡城を本拠とした。しかし妻にある都萬神社が二宮で、都農にある都農神社が一宮なのである。

 

 まず一宮の存在とその選定理由について確認したい。

 日本大百科全書 一宮の項

 古代末期に定められた神社社格の一つ。その選定時期、選定理由などについてはまだ明らかでないが、12世紀前半に成った『今昔物語』に周防国山口県)一宮玉祖大明神とみえるのが文献上の初見で、康和5年(1103)の伯耆国鳥取県倭文神社境内より出土の経筒にも一宮の字があり、およそそのころから称されたものとみられる。それも神祇官国司などによって公式に定められたものでなく、民間で唱えられ始めたものとみられている。その選定理由については近世以来諸説がある。諸国でもっとも位階の高い神社とも、また神祇官より諸国神社に伝達する際、便宜上、国ごとに一社を定めておき、そこを通じて布達させたその社の名残ともいう。あるいは国司着任の際いちばん初めに参拝した社のこと、あるいは国内でいちばん社領の寄せられていた社のことなどともいう。しかし、いずれも従いがたく、結局その国でもっとも由緒正しく、多くの信仰を集め、経済的基盤も優れていた社ということができよう。また、それも同時に全国的に生じたのではなく、古代末期から中世初頭にかけて逐次国ごとに称されたものとみられ、さらにそのころ二宮、三宮の呼称も生じた。のちに、国ごとでなく、郡内の、また、国内一地方の一宮、二宮以下を定めた例もあり、諸国の一宮も、時代の推移とともに変遷交替している場合もある。なかには伊勢国三重県)、甲斐国山梨県)、肥前国佐賀県長崎県)などのように、近世以来一宮争いをしている国もある。

 

 また他に11、12世紀以降下向しなくなった国史に代わって政務の中心となった在庁官人の神社祭祀形態として成立したという説もある。

 水谷類「国司神拝の歴史的意義」(『日本歴史』四二七号、一九八三年)

 

 都農町史では以下のような記述となっている。

 その背景を積極的に示す歴史的資料はないが、神徳の面で疫病、特にほうそうを患う者に対し、神験のある旨の伝えがあったことも一考に値するであろう。また、北の豊後から日向国に入る官道に沿い、四式内社中最も期待に位置すること、他国から船で日向国に入る場合、細島、美々津に着くが、そこから官道を少し南下した所に位置することなどの地理的条件が主因と考えられよう。 

 都農町史、1998年

 

 

 長くなったので、②へと続く