ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

同等一栄 ※追記あり

 昨日1000アクセスを突破しました。このブログを読んで都農に興味を持ってくださった方がいたら嬉しいです。

※再度見直したので「同等一栄」について書き直しました。 

 

 昨日NHK新日本風土記という番組を見ていたところ興味深い話しがなされていたの記事にした。

 京都北部にある伊根という漁師町では「同等一栄」という精神があるという。「同等一栄」とは皆が等しく栄えようという意味なのだが、もとは神様にお願いごとを聞いて下さいと念を押す言葉で、その言葉に当て字をして現在の用法となってそうだ。漁に出る前にこの言葉を唱えながら神社の周りを回る風習が放送されていた。この町では皆がお金を出し合って困っている人を救済する頼母子講が以前は存在したという。またブリが豊漁で1920年代には漁師以外の人にもお金が配られて、この町の人はみな同時に家を建て替えたそうだ。この精神が現在まで生きているからか、町民の八割の世帯が出資して潰れそうな漁協に代えて新たな漁業株式会社を設立した。

 こういった精神は柳田の言う「協同自助」の思想と似通う部分もあるのではないか。また柄谷は「協同自助」の思想と遊動性を結びつけて議論していたが、漁師にもある種の遊動性があるように思われる。

 

新日本風土記

勘十爺の頭 ※追記あり

 新年あけましておめでとうございます。2017年も最低週に1度はブログを更新できるよう努めたいと思います。

 

 都農では「勘十爺の頭(を結う)」という独自の方言がある。私は全く聞いたことはなく、私の親世代も聞いたことがあるものの意味まで把握出来ていないようである。私の曽祖父世代つまり1900年ごろに生まれた人は盛んに使っていたようだ。

 都農町史によると、意味は「当てにならぬことを当てにして待つこと」ということらしい。

 この勘十爺の話しが都農町史に載っていたので、以下に記載する。

 

「勘十爺の頭」

 一の宮の近くに勘十爺という者が住んじょったげな。爺というと年寄りのごだる(ようにある)が、都農ん町じゃ四十ぐれ(ぐらい)になると「何々じい」と呼んで親しみをこめちょった。

 明治になち(なって)、なんもかんも変わった。みんなざんぎり頭にしたが、この爺と新町の丑五郎の二人がちょんまげで通した。

 「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」ちゅ(という)歌もはやっちきた。爺は「日本人にゃ日本人のやりようがござんす。姿、形はどうでもいい。問題は心よ」といっていた。嫁女が「お前ばっかりちょんまげしちょっと(していると)目立つが。子供まじ(まで)肩身がせめが(狭いが)」といっても馬耳東風でかかりあわん(とりあわな)かった。

 読み書き算盤も出来、重宝がられ勘十も一つや二つの役を貰う男になっちきたげな。

 稲もよう出来て刈り入れを始めにゃと思ちょる頃じゃった。

 「嫁女貰えがあるげな。勘十どん。お前も祝いの席に呼ばれたじゃろ。はりくじ(はりこんで)つつじ行きゃいよ(祝儀をもって行きなさいよ)」と畑のもどりに作次が話した。

 しかし、晩飯頃にも案内はなかった。呼ばれんとじゃろか。そんげなはずはねぇ。とにかく、明日の朝「呼ぶのを落としちょった。はよ来てくりゃい」と使が来てからじゃ間に合わんと、橋の元の床屋で念入りに結うてもろたげな。

 一番鶏の鳴く頃起けち(起きて)、家を出たり入ったりして待っちょったが日が高くなっても誰も呼びにこん。勘十は、今まで経験したことのない、言いようのない暗い穴の中に落ち込むような気持ちが胸の中で渦を巻き、やがて大きくなってとうとう爆発した。

 「こんげな頭(髪)がなになるか。かなぐっちしもち、犬に食わし(ひきくずしてしまって、犬に食わせてしまえ)」とおろだ(大声を出した)げな。そして、きれい結うちょったちょんまげをくずしてしもたげな。手を髪油べとべとにして・・・。

 こりかい(このことから)当てにならぬことを当てにして待つことを「勘十爺の頭」というようになった。

(「都農町史」,都農町,2004年 p1260)

 

 この話しが「勘十爺の頭(を結う)」という言葉を生み出したという。勘十爺は三輪勘十さんという実在した人物のようで、他にも「勘十爺のむじなすべ」という話しが町史には掲載されている。余程人気者であったのだろう。

 こういった一見訳の分からない言葉残っているのは面白いなと思ったので、記事にした。

 

 ※追記

 三輪勘十さんの話しが広報つのに載っていた。三輪勘十さんは都農組の長を務めて居た人で、維新政府が土地賦課方式に切り替えたからであろうか。後藤正淑さんに湯ノ本の地をただで引き渡したという。

 

広報つの 2016年1月号 p21

http://www.town.tsuno.miyazaki.jp/display.php?cont=160205192733

 

「九州南部地方の民風」について

 柳田国男の初期の著作「九州南部地方の民風」において都農近辺のことが言及されているのだが、いくつか気になる点があったので触れておく。

 

 以下引用

 宮崎もまた純然たる新開地の町でありまして、土語方言というものだなく、諸国語の混合であります。この土地で最も勢力のあるのは、伊予の宇和地方の者であります。高鍋の北なる河南村の高原、美々津、細島地方より、西臼杵郡高千穂地方、すなわち三田井附近にも移住者がはなはだ多く、新開地の状態を呈して居るのであります。

(「柳田國男全集5巻、『九州南部地方の民風』」,柳田国男,筑摩書房,1989年)

 

 まず気になったのは「この土地で最も勢力のあるのは、伊予の宇和地方の者であります。」という部分である。柳田が指摘するように宮崎は新開の地である。確かに宮崎は明治以降に開発された地域も多い。例えば川南は開発がかなり遅く日本三大開拓地の一つであり、戦後に開拓が進んだ町である。川南合衆国と自称している通り、他県からの移住者が多い。また私の祖母の実家も他県から移住してきた家系である。

 しかしながら勢力を持つ者を伊予の宇和地方に限定するというのは疑念がある。先に話した祖母の実家は高鍋の商家で、いわゆる地主であり、町議会なども努めている。ただ伊予からではなく土佐からの移住者の家系であった。土佐や伊予など四国の西部、南部地域とは海上を通じての交流が盛んであったようで、そこからの移住者は多かったであろうということは予想される。そういった移住者には商人が多く、勢力を持つ者も多かったであろうが、それを伊予の宇和にまで限定するのは行き過ぎのように思われる。

 次に気になったのは「高鍋の北なる河南村の高原、美々津、細島地方」という記述である。一見すると河南村に高原、美々津、細島が所属しているように見えるが、美々津、細島は河南ではない。そもそも河南は名貫川の南という意味であるのだが、美々津、細島は名貫川のはるか北である。また美々津も細島も当時は独立した町であった。(現在は日向市)間違えて記述したのか、読みとりづらいのかはわからないが注意したい。

 加えて注意したいのが、高原という地名である。ここは明確に河南に属していると読み取れるが、川南にそういった地名はない。恐らく鹿児島との県境のほうにある高原か、川南にある高盛と間違えたのであろう。

「遊動論 柳田国男と山人」②

 前回の記事の続きです。

 

 さて、柳田の椎葉村ユートピア論であるが、立論の時点を彼が訪村した明治四十一年七月以降と仮定して考察する。というのは、資料6と7で実証したように、少なくとも十八世紀中葉(寛永四年)における焼畑共有地配分には歴然たる格差があった。(水越村の場合、最高最低の格差一〇二対一、唖谷村の場合、一六二対一)

 ※資料6は「赤にた山、大田山、総之尾山、焼畑覚帳」、資料7は「松尾組焼畑改覚帳 春米山」[1]

  牛島によれば柳田が椎葉を訪問した時には既に格差が存在していたという。協同自助の社会というのは単純な土地の割り振りで判断出来るものではない。実際柳田は家貧にして家族多いものには多めに土地が割り振られていたと述べている。[2]しかしながら1対100を超えるような土地の割り振りが協同自助として正当化され得るのであろうか。そのように考えると「協同自助」の社会は実在しない文字通りのユートピアでしかない。

柄谷は交換様式Dを持つ社会という思考実験の先達として柳田に学ぶことは出来るが、交換様式Aを現に見た者として柳田に学ぶことは出来ないのだ。そして交換様式Aという仮説の立脚基盤の一部を失うことになる。

 

 その収穫は明らかにこれがために費す労力資本を償わないのです。彼らもこれを知らないのではない、知って居てもなおかつ敢えてするのである。その理由は抑も何にあるか、恐らくは米食の習慣の増進、自作米を食うという農民の誇りに感染したのもその原因の一部でありましょう。[3]

 

 我々の祖先の植民力は非常に強盛でありましたがそれにも明白に一つの制限がありました。いかなる山腹にも住む気はある。食物としては粟でも稗でも食うが、ただ神を祭るには是非とも米がなくてはならぬ。[4]

 何故険しい山の斜面でわざわざ米を作るのかという疑問に対し柳田は、神を祭るために必要であったという回答を与えている。しかしこれについては赤坂憲雄から批判が出ている。

 

 大方の日本人=常民にとって、稲はハレの日以外には食することのかなわぬ、支配-被支配のための公的な回路であったことを捨象するわけにはいかない。(中略)たとえみずからは作ることも食すこともないのが現実であれ、租税や年貢として、ほかなるぬ稲を天皇・将軍・領主といった支配階層のもとに運ばなければならなかったのである。稲の強迫はおそらく、法や制度の位相にこそまず存在したのだということを忘却してはならない。[5]

 赤坂の述べるように山の斜面で稲を作る理由が支配―被支配の関係にあるのだとしたら、棚田の存在する椎葉にも支配-被支配の関係が及んでいたということになる。国家と連続する支配―被支配の関係が存在している以上そこにはもはや原初的な遊動性は残存し得ないのではないか。

 

 以上半ば柳田に対する批判も交え展開してきたが、私自身は協同自助の社会の実現を願っている。現代のようにすでに農村が衰退し、農協が支配的になっている世界では柄谷の言うような回帰的な形でしかそれは実現しないが、明治期や戦後はそうではなかった。柳田の主張が通った世界線をつい想像してしまう。もちろん日本史で習うように寄生地主制が安価な労働力と資本を供給し、近代化に大きく貢献したという事実には変わりはなく、現実の社会が一概に悪いともいえない。しかし世界的に急速に格差が拡大している時代において、協同自助の思想は意味あるものなのではないかと思う。

 

[1] 「日本民俗学の源流 -柳田国男椎葉村-」牛島盛光,1993年,岩崎美術社 p178

[2]柳田國男全集4巻、『九州南部地方の民風』」,柳田国男,1989年,筑摩書房

[3] 同上

[4]柳田國男全集5巻、『山民の生活』」,柳田国男,筑摩書房,1989年

[5]「山の精神史 -柳田国男の発生-」赤坂憲雄,1996年,小学館 p322

「遊動論 柳田国男と山人」①

 柄谷行人柳田国男論には大きな影響を受けた。しかしながらこれについては自分なりの批判もある。そこで「遊動論」についての批評を書いて行きたい。量が多いので2回にわけて書こうと思う。今回は「遊動論」のベースにある「協同自助」の思想についての理解をまとめた。

 

 最初に注意したいのは山人と山民が異なるということである。山人は存在するかどうかわからない日本の先住民であるが、山民は現実に日本の山に住んでいる人たちである。

 

 柳田の前にはいつも「貧しい農村」という現実があり、それを解決することが彼の終生の課題であった。が、彼にとって、「貧しさ」はたんに物質的なものではなかった。農村の貧しさは、むしろ、人と人の関係の貧しさにある。柳田はそれを「孤立貧」と呼んでいる。では、どうすればよいのか。柳田が協同組合について考えたのは、そのためである。[1]

 柳田は10歳の時に経験した飢饉に非常な衝撃を受けた。この経験が後に「協同自助」の社会の実現という主張に繋がっていくと思われる。

 

椎葉村に柳田が驚いたのは、「彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と異なって居る」ことである。柳田にとって貴重だったのは、彼らの中に残っている「思想」である。山民における共同所有の観念は、遊動的生活から来たものだ。彼等は異民族であると見なされない。ゆえに山人ではなく、山民である。しかし、「思想」において、山民と山人と同じである。柳田はその思想を「社会主義」と呼んだ。柳田のいう社会主義は、人々の自治と相互扶助、つまり、「協同自助」にもとづく。それは根本的に遊動性と切り離せないのである。[2]

柳田は椎葉で理想とする「協同自助」の社会を発見した。そしてそれが遊動性と切り離せないということに気づいた。山民を遊動性を持つ山人とは異なるが、山民の思想の中に山人と同様のものがある。では何故遊動性と「協同自助」は切り離せないのか。

 

 定住とともに生産物の蓄積、さらに、そこから富と力の不平等が生じる可能性があった。それは早晩、国家の形成にいたるだろう。しかし、そうならなかったのは、定住した狩猟採集民がそれを斥けたからである。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するためのシステムを創りだした。それが贈与の互酬性なのである。[3]

 柄谷は狩猟採集民的が定住したあとも国家社会に至る道を回避するため「贈与の互酬性」を生み出したとしている。国家を形成し、富の偏在を容認した常民では「協同自助」の社会を生み出すことが出来ない。

 では何故椎葉の山民は「贈与の互酬性」の思想を持っているのか。柳田の論理展開と柄谷の論理展開が異なることに注意しなければならない。柳田はその理由を山人に求めている。山民は原初的遊動性を持つ山人と接点を持つからこそ「協同自助」の思想を持つことが出来たというものである。(※後に柳田は山人論を引っ込めていることに注意)しかし柄谷は山人の実在を信じていないため、このような論理展開をとることが出来ない。明示的には説明していないが、恐らく柄谷の論理はこうであろう。(議論の中核になる部分であるにもかかわらず、明示的に説明しないのは不味いと思うのだが)山中深くにある椎葉は江戸時代に入るまで国家からの支配を免れており、国家の支配を受けたのが他の地域に比べ遅かった。そのため「贈与の互酬性」の思想をどうにか保つことが出来たのである。

 

 柳田が賞賛したのは、焼畑という農業技術ではなく、遊動性がもたらした社会形態なのだ。それは、たとえ外見上焼畑農業が残っても消えてしまうだろう。ただ、山民が現に行っていることを、将来彼ら自身が、別のレベルで実現するだろうと期待し、そのために現在あるものを記録する。それが柳田の民俗学あるいは「郷土研究」である。これは「供養」のようなものである。が、柳田はそれが将来役立つと信じたのである。[4]

 

 資本=ネーション=国家を越える手がかりは、やはり、遊動性にある。ただし、それは遊牧民的な遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性である。定住後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえってそれは国家と資本の支配を拡張するのである。

 定住以前の遊動性を高次元で回復するもの、したがって、国家と資本を超えるものを私は交換様式Dと呼ぶ。それは単なる理想主義ではない。それは交換様式A(互酬)がそうであったように、「抑圧されたものの回帰」として強迫的に到来する。

 (中略)

 交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることは出来る。[5]

 

 彼がいう日本人の固有信仰は、稲作農民以前のものである。つまり、日本に限定されるものではない。また、それは最古の形態であるとともに、未来的なものだ。すなわち、柳田がそこに見いだそうとしたのは、X(交換様式D)として回帰するような現遊動性なのである。[6]

 柄谷はグルーバル化が進む現在で改めて遊動性が重視されるようになったと説く。国家と資本を超える交換様式Dは未知なるものであるが、確定的に到来する。その交換様式Dを考えるためには柳田が将来役立つと考えた民俗学が不可欠なのである。柄谷が「世界史の構造」発表後の今になって柳田に再注目している理由はここにあるのだろう。

 

[1] 「遊動論 柳田国男と山人」柄谷行人,2014年,文藝春秋 p62,63

[2] 同上 p72

[3] 同上 p183

[4] 同上 p99.100

[5] 同上 p192,193

[6] 同上 p195

都農高校

 都農高校の閉鎖が決まった。以前から閉鎖の話しはあったのだが、正式に決まったようである。

 学区制の時代は賑わっていて、都農中学からは半数ほどが都農高校に進学していた。残りの半分は同学区にある高鍋高校に進学しており、私の親も高鍋高校であった。しかしながら、学区制廃止以降宮崎市内の高校へ進学する学生が増加し、少子化も相まって今では高鍋高校も都農高校も定員割れである。児湯郡唯一の高校となった高鍋高校が閉鎖されることはないと思うが、今後も定員割れは続くだろう。地方衰退の一場面を見ることになり、物悲しさを感じた。

都農高校 高鍋高校に再編統合(MRTニュース) - MRT宮崎放送

県議会の話し

 更新頻度が落ちてしまって申し訳ない。やはり都農に帰らないと調べられないことが多く、東京では出来ることは少ない。とはいえ民俗学の本は読んでいて、今学期からも新たに民俗学関連の授業をとっている。(私の大学では昨年度から4学期制をとっているので、12月から始まる授業がある。実際のところ形だけの制度改革で、そういう授業はあまり多くないのだが...)

 

 宮崎県議会の定数は現在39議席となっている。そのうち3議席が都農の所属する児湯郡に割り当てられている。児湯郡から選ばれた県議会議員の出身地を見ると木城、高鍋、新富となっている。県議には選出はされていないものの、300票差の僅差で落選した川南出身の候補者がいる。都農以外の自治体からは県議会議員へ立候補している者がいるようである。(西米良は児湯郡であるものの、西都と選挙区が同じである。)

 ところが都農からは誰も立候補していない。調べてみると都農からはここ数十年県議会議員が出ていない。確かに都農は児湯郡内での人口規模は現在4番目であり、苦しい選挙戦が予想される。しかしながら都農よりも人口が少ない木城から県議が選ばれていることを鑑みるに、単純な人口の多寡で選挙が決まるわけではない。県議は地域の意向を県に反映するという意味で大きな役割を持つ。大袈裟なことを言ってしまえば都農の意見が県に届いていないのである。都農から県議の候補は出ないものだろうか。

 

 余談だが、最後の都農の県議は私の祖父母がお世話になっていた人である。いわゆる仲人親というもので、家の側の道路工事をお願いしたり、仕事の斡旋をしてもらったりと相当お世話になっていたようだ。柳田国男によれば仲人親のような仮親関係というのは、大農経営の解体に伴って家の単位が縮小して行く中で、脆弱化した家制度を補うものとして登場したという。こういった親分子分関係が選挙を左右してしまうことを柳田は嘆いていたわけだが、私は祖父母が仮親関係の世話になっていたという話しを聞いていたため非常に興味深かった。今ではこういった仮親関係はあまり見かけなくなり、私の両親にもこうした仲人親はいない。ところがこうした仮親関係が不要になったのかというと、それもまた違うと私は考えている。家と地域社会の解体が更に進み仮親関係の構築が不可能になっただけなのではないか。核家族に見られるように家の単位が完全に縮小しきり、頼る人がいない状態は果たして望ましいのだろうかと考えてしまう。