県議会の話し
更新頻度が落ちてしまって申し訳ない。やはり都農に帰らないと調べられないことが多く、東京では出来ることは少ない。とはいえ民俗学の本は読んでいて、今学期からも新たに民俗学関連の授業をとっている。(私の大学では昨年度から4学期制をとっているので、12月から始まる授業がある。実際のところ形だけの制度改革で、そういう授業はあまり多くないのだが...)
宮崎県議会の定数は現在39議席となっている。そのうち3議席が都農の所属する児湯郡に割り当てられている。児湯郡から選ばれた県議会議員の出身地を見ると木城、高鍋、新富となっている。県議には選出はされていないものの、300票差の僅差で落選した川南出身の候補者がいる。都農以外の自治体からは県議会議員へ立候補している者がいるようである。(西米良は児湯郡であるものの、西都と選挙区が同じである。)
ところが都農からは誰も立候補していない。調べてみると都農からはここ数十年県議会議員が出ていない。確かに都農は児湯郡内での人口規模は現在4番目であり、苦しい選挙戦が予想される。しかしながら都農よりも人口が少ない木城から県議が選ばれていることを鑑みるに、単純な人口の多寡で選挙が決まるわけではない。県議は地域の意向を県に反映するという意味で大きな役割を持つ。大袈裟なことを言ってしまえば都農の意見が県に届いていないのである。都農から県議の候補は出ないものだろうか。
余談だが、最後の都農の県議は私の祖父母がお世話になっていた人である。いわゆる仲人親というもので、家の側の道路工事をお願いしたり、仕事の斡旋をしてもらったりと相当お世話になっていたようだ。柳田国男によれば仲人親のような仮親関係というのは、大農経営の解体に伴って家の単位が縮小して行く中で、脆弱化した家制度を補うものとして登場したという。こういった親分子分関係が選挙を左右してしまうことを柳田は嘆いていたわけだが、私は祖父母が仮親関係の世話になっていたという話しを聞いていたため非常に興味深かった。今ではこういった仮親関係はあまり見かけなくなり、私の両親にもこうした仲人親はいない。ところがこうした仮親関係が不要になったのかというと、それもまた違うと私は考えている。家と地域社会の解体が更に進み仮親関係の構築が不可能になっただけなのではないか。核家族に見られるように家の単位が完全に縮小しきり、頼る人がいない状態は果たして望ましいのだろうかと考えてしまう。
日吉神社の八王子山
先日滋賀県にある日吉大社に行った時の話しである。西宮、東宮への参拝を済ませ、1キロほどの急な坂道を登り奥宮に辿り着いたところ、あるおばさんに声を掛けられた。この先にご利益のある場所があるのだけれど、道が整備されておらず一人で行くのは怖いのでついて来てもらえないかと。時間もあり、少し興味もあったのでついていくことにした。全く整備されていないわけでもないが、薄暗く半ば獣道のような道を5分ほど歩くと少し開けた場所に着いた。その真ん中に石がこんもりと積まれていて、一番上に八王子山と掘られた石が置かれていた。おばさんはこの場所が先程言っていたご利益のある場所なのだと言うと、持ってきたお神酒や線香、蝋燭を供え、涙を流しながら手を合わせていた。私は側にあった倒木に腰を掛けて待っていたのだが、しばらくするとごめんなさいねと言いながら、ここに来たわけを話してくださった。以前近しい人(恐らく娘さんだと思うのだが踏み込んでは聞けなかった)が癌になってどうしようもなくなったのだが、その時に天台宗の偉いお坊さんにどうすれば良いのか尋ねたところ、最澄の両親が最澄を生む際の安産を願った場所があるとしてこの場所を紹介されたという。そこでここに来て祈ったところ、治らないと思っていた癌が無事治ったので、その御礼参りと新たな悩みを聞いてもらうために来たのだという。そして続けて、君には今悩みがあるのかもしれないし、もしかしたらまだ若いから悩みはないのかもしれない。でもここに来たのは何かの縁だから、もし将来どうしようもない悩みが出来たらここに来なさいと。
私にはそれほど大きな悩みはないし、理性というか余計な知識が邪魔してしまって純粋な信仰を持つことが出来ない。おそらく最澄を生む際に祈った場所というのも後世の作り話しであろう。しかしながらそれを信じられるというのが素直に羨ましかった。頭でっかちになってしまった自分とどちらがいいのだろうと思う。お金を巻き上げるだけの宗教はもちろん良くないとは思うが、信仰というものの存在意義というのは現代においても失われていないのだと、再認識した。
写真一枚目は奥宮から見た景色。坂本の町並みと琵琶湖、そして対岸の町並みが見える。
写真二枚目は奥宮。国の重要文化財に指定されている。
三枚目の奥に見える巨石が奥宮の御神体。この岩の裏へ回って八王子山へ行った。
四枚目は八王子山の写真。
ふるさと納税
ふるさと納税の時期がやってきた。私自身はまだ親の扶養に入っているのでふるさと納税をするということはない。しかし親はふるさと納税をするようだ。
都農はふるさと納税に力を入れているようで、トマトから牛肉、ワインまで幅広い物産を取り扱っている。詳しくは以下のリンクを参照。
ふるさと納税サイト [ふるさとチョイス] | 宮崎県都農町[つのちょう]のふるさと納税で選べるお礼の品・使い道
昨年は日テレの鉄腕ダッシュという番組で二度も都農町が紹介されたおかげか、寄付件数、寄附金額ともに大幅に増加している。
2014年 | 2015年 | ||
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寄附件数 | 202件 | 36,862件 | |
寄附金額 | 3,880,000円 | 703,387,971円 |
都農のような規模の小さい自治体において、これだけの額のふるさと納税が財政状況に資する影響は大きい。実際財政も相当潤ったようだ。
昨年ふるさと納税をした人が今年もまた納税してくれることを願う。
このブログを読んでいる人の中にも、ふるさと納税をしてくれるかたがいたらいいなと思う。
ニギハヤヒ
以前都農神社の祭神について書いた記事において都農神社の祭神は大物主ではないかという考えを示したが、考えを改めたので新しく記事にした。考えれば考えるほどよくわからなくなるので、暫定的なものと思って読んで頂きたい。
まず都農神社の現在の祭神は大己貴命とされているが、これに異論はない。大己貴命は大神神社の祭神の一人であり、三輪氏とともに信仰も移ったのであろう。
問題は大神神社の主祭神が大物主であることだ。大物主は大国主と同一説もあり、大国主は大己貴命と同一だという説もある。その意味で両者は同一の神だということも出来る。
余談だがこの大国主という神様は非常にややこしい。大国主は一般に国譲りをした神様として知られるが、多くの名を持っている。何故多くの名を持つのかについては、様々な説明がなされているが、本当のところはよくわからない。(例えば偉大さを示すためだとか世襲制であったとか、いくつかの神をまとめたとか)
では大物主とはどのような神なのだろうか。記紀には大物主についての記述がほとんどなくどのような神様なのかよくわからない。ただ大物主には饒速日と同一ではないかという説が存在している。その理由については以下のリンクを参照していいただきたい。
この説は主流とは呼び難いものの、都農に饒速日が祀られていることに説明を付けられる。例えば尾鈴神社の祭神は饒速日とされており、また惣国風土記(偽書の可能性が高いとされているが)において都農神社の祭神は饒速日とされている。
そこで考えたのが以下の説である。三輪氏が移住してきたときは饒速日を祀っていたが、記紀編纂後に大己貴命に祭神を変えたのではないか。尾鈴山の祭神や、惣国風土記の記述はその名残でないかと。
都農の磐座信仰
大神神社に行ってきて色々と考えが変わったので、改めて記事を書きたい。
以前は都農に移住してきた三輪氏が都農にある尾鈴山を三輪山に比定したのではないかと考えていた。しかし三輪山を訪れたところ、尾鈴山と似ても似つかぬ山であった。そのため以前の考えを改めなければならなかった。
だが大神神社を訪問したことで新たな発見もあった。大神神社の御神体は三輪山であるが、三輪山にある磐座を神体としていたことがわかったのである。以前の記事で都農神社の御神体は都農牧神社の岩山ではないかと書いた。この岩山に対する信仰を、移住してきた三輪氏が持ち込んだのかもしれない。
三輪山の磐座には興味深い信仰のあり方が表れている。三輪山の岩が割れているのである。もし都農の岩山の岩も割れているようであれば、大きな手がかりとなりうる。次回都農を訪れた際に調べてみたい。
なお岩の割れについてであるが、参考までに山折哲雄は以下のように述べている。
あれは恩頼(みたまのふゆ)ということを表現する跡かもしれない。磐座が割れるのは、神様の御霊がどんどん増えていって、そしてその神様の力が強化されるために割れる。それがどんどん増えていって神様の分身が作られていく、その事を象徴しているのではないかと私もその時思いました。
(「古代ヤマトと三輪山の神」 大神神社編 学生社 2013 『第二章 三輪山の信仰 ーカミと神ー』 p40)
大神神社
暇だったので、京都・奈良をぶらぶらしてきた。三輪氏の関係で都農神社と縁のある大神神社を訪れたので記事にしてみようと思う。
訪れたのは11月1日の朝10時ごろ。三輪駅から徒歩5分ほどで境内に着いた。平日であるにもかかわらず思いの外混んでいて驚いたのだが、朔日詣りの方が多かったようだ。
神奈備山信仰で本殿はなく、三輪山が御神体となっている。写真は拝殿。
参拝を終えたらちょうど月次祭が始まるころだったので、参加することにした。大祓詞を唱えたり、神楽を見ることが出来て良かった。
大神神社の直ぐ側にある狭井神社から三輪山に登ることが出来る。尾鈴山と比較をしてみたかったので登ることにした。江戸時代は禁足地とされていた山であり、規則も厳しく残念ながら写真を撮ることが出来なかった。300mほど登ると頂上に着く。頂上には高宮神社があり、その奥に磐座があった。この岩群に対する信仰が三輪山信仰の原点であったのかもしれない。
尾鈴山と比較しようと思い登ったのだが、似ても似つかなかった。標高や土、傾斜など異なるところが多すぎる。似ているところは周囲の山と標高がそれほど変わらないところぐらいだろうか。自説をひっくり返すことになるが、尾鈴山を三輪山に比定したということはないように思う。
ただ他に思うところはあった。三輪山の信仰の原点が磐座にあるのだとしたら、都農の岩山の岩と三輪氏の信仰が結びついたとしてもおかしくはない。
もろもろの考えが変わったので後日まとめて記事にしたい。
最後に大神神社近くの丘から撮った写真。奥にあるのは大神神社の鳥居。