ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

南原繁と折口信夫 その三

 折口信夫神道普遍宗教化については柄谷行人氏が「遊動論 柳田国男と山人」において批判している。ただしタイトルにもあるようにあくまで柳田国男論が中心で、柳田国男の固有信仰と対比する形で折口を批判している。(第四章の5 p157~166)

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 該当部分の要約

 折口信夫神道から祖先信仰的なものを取り去れば普遍宗教化出来ると考えているが、祖先信仰は普遍宗教化の妨げとなるものではない。普遍宗教には神が人を愛するという関係が必要である。例えばユダヤ教はバビロン捕囚の際にそれを神の責任にせずに自らの信仰不足に求めたときに、人が神を愛し、神が人を愛すという関係が生じ普遍宗教となった。

 また折口は普遍宗教化には預言者のような宗教的な人格が必要であるとし、教義理論を重視するが、それは知的類推に過ぎない。普遍宗教化の背景にあるのは世俗的な社会変化である。例えばユダヤ人はバビロン捕囚の際に定住農耕民から遊動的な商業民となった。

 

 まず柄谷は柳田の固有信仰の中核となる先祖崇拝を折口が否定したことを批判している。普遍宗教に愛が必要なことをその根拠とし、例としてユダヤ教をあげている。しかしそもそも普遍宗教に愛が必要だという論理はよくわからない。そもそも普遍宗教という概念は曖昧ではあるのだが。またユダヤ教が普遍宗教だというのには多いに議論のあるところであろう。

 また普遍宗教化の背景には社会変化があるというが、戦後の日本の社会変化の激しさは相当なものであろうし、ユダヤ教はともかくキリスト教誕生当時そこまで社会変化が激しかったとも思えない。

 柄谷の批判は遊動論という観念に引っ張られすぎてやや的外れなものになっている。遊動性を重視するならイスラム教を例に出せば良いのにと個人的には思うのだが…

南原繁と折口信夫 その二

 前回の記事の続きになります。今回は前回取り上げた南原繁折口信夫の論考についての批判になります。

 

 南原繁に対する批判は丸山真男によってなされました。1964年に行われた南原繁丸山真男の座談会において南原は以下のように述べます。 

 民族の個性があって、ほんとうの祖国日本という意味においての民族の共同体はいつまでも残さなければならない。世界の共同体ができても、これを踏まえてのものですね。それはいわば神的秩序だと思う。

 そこに私は、日本の神話なり、歴史を生かす道があると思う。たとえばあの神話においては、われわれの祖先は遠く昔から日本民族の永遠性を信じている。どこの民族もそうでしょうが、ことに神国といっているところに、象徴的な意味がある。

(戦後日本の精神革命)

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 こういった形で南原は戦後20年近く経っても神道の普遍宗教化を考えているわけです。しかし南原の弟子でもある丸山は気を使いながらもこれを批判します。

 神話に普遍的意味を与えるのは非常に難しいところだと思うのです。「神の国」という概念は、やはり先生は、根本にキリスト教的な考え方から考えられますけれども、日本の実際では氏族神になるのですね。ですから、皇室の祖先だし、どこまで遡ってみても祖先神はやはり特殊者にすぎない。特殊者を越えた、普遍者という観念にはならないのですね。 

(同上)

 日本書紀なり古事記なりを読めばわかりますが、大抵の神様は何某かの氏族の祖先なわけです。例えば饒速日命物部氏の祖先だというように。

 キリスト教における神様を創造していただければわかりやすいかと思いますが、普遍的な神というのは全てを超越した絶対的な存在であって、キリストを除けば誰かの祖先だとかそういうことはないわけです。現実の人と隔絶した存在であるところに普遍性があり、それが民族的な宗教にとどまる神道キリスト教との大きな違いなわけです。

 丸山がここで指摘しているのは日本の神は氏族神であって、人と隔絶した普遍的な神にはなれない。結局氏族、民族の神にしかなれない。そういうことであります。

 これは最もな指摘であるのですが、折口の神道普遍宗教化には柄谷行人によって丸山と真逆の批判がなされるのであります。

 

南原繁と折口信夫 その一

 ネタが尽きつつあるので、論考を。

 南原繁は戦後最初の東大総長を務めた政治学者である。一方で折口信夫民俗学者である。両者はかなり異なる背景を持ち、対談などといった形で積極的な交流を持たなかったと。しかし両者とも同じ時期に同じようなことを考え、発表した。それは神道の普遍宗教化である。

 

 南原は1946年2月の紀元節(現在は建国記念の日)に東大で「新日本文化の創造」と題する演説を行った。

 簡潔に要約する。(簡潔過ぎるので詳しくは読んでいただけると幸いです。)

 敗戦によって戦前の誤った日本精神が崩壊した中で、新たなる精神的変化が必要である。「人間を超えた超主観的な絶対精神」と出会うことで人間はその限界を克服して、真の自由を手に入れられる。それには「新たに普遍人類的世界宗教」を受けいれなければならない。そしてその中で神道の可能性を示した。

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 折口は戦争末期から「神道の新しい方向」や「民族教より人類教へ」、「神道宗教化の意義」といった論考の中で神道の普遍宗教化について考えている。「神道の新しい方向」については青空文庫著作権が切れた著作を無料で読める電子文庫)に掲載されていたので、リンクした。

折口信夫 神道の新しい方向

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 南原の演説は、演説であるため聞き手である当時の東大生には多少なりと影響を与えた思われ、また朝日新聞に掲載され広く読まれた。

 一方で折口の論考はあまり影響力を持たず、折口自身は神道界から追放されることとなった。

 

 戦後70年経った今振り返って考えてみると、両者の切実な願いは叶わず日本に普遍宗教が生まれることはなかった。普遍宗教を生み出そうとする運動すらほぼなかった。急速な経済成長と唯物論無神論の流行によって覆い隠されてしまったのがその要因だと思われるが、それ以外にも理由はある。

 その二で南原、折口それぞれへの批判を検討していきたい。

 

 

日向(市)観光

①馬ヶ背・クルスの海

 以下の写真の切り立った崖の部分が有名。(この写真の部分が馬ヶ背ではなく、岬の突端部分が馬ヶ背と呼ばれている。)

 岬の突端まで歩いていくことが出来る。三方を海に囲まれているため、晴れた日は見晴らしも良く、気持ちが良い。

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 馬ヶ背から車で2、3分のところにクルスの海と呼ばれる場所がある。

 写真だと少しわかりづらいのだが、岩によって区切られた海が「叶」という文字に見えることから、願いが叶うと言われている。

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②伊勢ケ浜、お倉ヶ浜、金ヶ浜

 日向に来る時は大抵イオンか海だったので、私にとって日向は海の印象が強い。都農には上級者のサーファー向けのスポットはあるが、海水浴用の浜はない。また高鍋には整備された海水浴場があるが、テトラポットの内側にあるため、大きくなると物足りなくなってくる。そのため日向まで来ていた。

 

1.伊勢ケ浜

 伊勢ケ浜は一番波が弱く、幼いころに良く行っていた。そのためあまり記憶には残っていないのだが、サメが出て行っても泳げないことが度々あったことを覚えている。

 先の馬ヶ背とも近い。

 

2.お倉ヶ浜

 小学校の中学年ぐらいからはこちらのお倉ヶ浜に来るようになった。今でも夏には行っている。お倉ヶ浜はやや波が高く、海水浴だけでなくサーフィンやボディボードを楽しめる。

 ここの浜はサーフスポットとして有名で、車のナンバーを見ると県内外から多くの人が来ている。

 

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3.金ヶ浜

 かなり波が高く、海水浴場はない。サーファー向けの浜になっている。

 先のお倉ヶ浜との関連で伝承が残されている。以下のリンク先では蛤が取れる取れない理由を説明する伝承となっているが、私が親から聞いたのは波の高低の理由を説明する伝承であった。どちらにせよ柳田国男の「日本伝説名彙」に載っていそうな典型的なお話しだ。

みやざきの神話と伝承101:お金ケ浜・お倉ケ浜

 

 

 

古代日向の国

「古代日向の国」 西都原古墳研究所所長 日高正晴、1993年、NHK BOOKS

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 古代日向の国がタイトルではあるが、内容の中心は児湯地域となっている。西都原古墳研究所所長が著者ということもあって西都贔屓な記述なのではないかと感じなくもないが、児湯地域を中心として取り扱った本は少ないので参考になった。

 以下に気になった部分をメモする。

 

第Ⅰ章の三で日向が本来は豊の国であり、西都がその中心であったと推定。現在の大分宮崎における豊日文化圏。

p82 都農に「つのう」というるび。

p90 「つのう」というるび再び。

 積石塚が都農の明田地区の海沿いにある。これは九州では都農だけで、東北アジアから影響を受けた可能性を指摘。

p140 「児湯郡神社取調書」によると西都の三宅神社を西都農神社と記していた。

p182 平群という地名から平群氏の存在を推定。(平群氏は5世紀のヤマト政権で力を持った氏族)

p196,197 日向系皇統の存在とその敗北。

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p200~207 物部、中臣の両氏の出自を豊後国直入県(現大分県竹田市)に求める。太田亮氏の説を引用し展開。

p207~p212 都農についての記述。この神社には、古くから「祝」の家柄として都農神に仕えてきた三輪氏が存在する。

 物部氏にまつわる話しが都農に多いのを、先の物部氏の出自が直入県にあったという説に求める。(ex尾鈴神社の祭神が饒速日、磐船)

p212~226 三輪山説話(大蛇の子を産む話)と祖母岳に伝わる説話との類似性を指摘し、それが朝鮮半島最北端がルーツだとする。伝承の比較をして九州に伝わったのが先で、ヤマトにはそのあと伝わったのではないかという説を提唱。

 

郡衙

 三輪貞夫さんが編集した「神社探訪 都農」に興味深い話しが載っていた。以下は太字は引用

 

ある識者の説

 滝神社の近くには、弥生時代の竪穴式住居跡の一部が確認された境ヶ谷遺跡、古代土器の出土を見た京塚、黒石などの遺跡が存在しており、ある識者は、不明としながらも「日向の国一之宮都農神社があり、その西に西の郡という集落があることから都農神社付近に駅家を兼ねた郡衙の存在を指摘し、当駅の比定はこれに続く児湯駅、当磨駅を何処に比定するか、また国府に駅家があったのか否かという問題と密接にかかわる」と述べている。

 

 都農に遺跡が多いのは確かに事実である。しかし川南、高鍋、西都に比べれば古墳の数は少ない。遺跡と古墳では時代が違うという反論もあろうかと思うが、郡衙や駅家という律令制が展開されてからの時代について議論する以上、弥生時代の遺跡よりも古墳を重視すべきである。

 補足すると郡衙とは郡の統治の拠点であり、現在の市役所のようなものである。ここでいう郡衙とは児湯郡郡衙を意味すると思われるが、同じ児湯郡国府国分寺を有する妻が存在する以上、都農に郡衙の存在があったと考えるのは厳しい。

 駅についても補足すると、古代の官道上に設けられた施設で、馬の交代などを行った。都農駅(去飛駅と記述されているが、都濃の草書体を誤記したとする説が有力)は都農にあったとして間違いないであろう。当磨駅は佐土原だと推定されている。

 西の郡という集落がどこにあるかはわからないので、これについては調べてみたい。

延岡の諸神社

1.三輪神社

 三輪氏の痕跡が見られる地ということで行ってみた。五ヶ瀬川沿いに延岡市街地から登っていき、ちょうど高速の下のあたりにある。祭神は三輪系ということで大己貴命である。

 神社そのものは地域にある普通の神社という感じがしたが、この地は下三輪という地名であり、地名からして三輪氏の痕跡が感じられる。

 神社の前にあった碑によれば養老2年(718年)にすぐ裏手の山のほうにある青谷城から移転して来たという。ということは718年より前から三輪氏の勢力がこの地にあったということになる。興味深い。

宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - 三輪神社(みわじんじゃ)

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2.神さん山(祝子川)

 延岡市内ではあるがかなり外れており、祝子川温泉のすぐ近くにある。祝子川は「ほうり」と読むのだが、ホオリノミコトの産湯にこの川の水を使ったことからこのような地名がついたという。

 洞穴遺跡とも言うらしく、その看板を目印に階段を登っていく。巨石信仰のようで、写真の二つの巨大な岩が御神体となっている。この二つの岩の間では縄文時代に人が暮らしていた痕跡があるらしい。

わけあって延岡 | 美人の神が産湯として使った聖流 「祝子川」が流れる渓谷

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