ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

何故郷土研究か

 前回の記事のように郷土研究とは異なる内容を書くこともある。一応このブログの内容は郷土研究が中心となっている。

 では何故郷土研究なのか。

 私が把握している限りでは大学の周りに郷土研究をしている人はいない。趣味として取り組もうという人はあまり多くないであろうし、仮にいたとしても若い人にはほぼいないであろう。

 郷土研究を初めた理由についてきちんと考えてみると、歴史や民俗が好きで、さらに都農が好きだからということは浮かんでくるが、よくよく考えると祖父の影響が大きいのだと思う。

 五年ほど前に祖父が亡くなった時、私はまだ高校生だったのだが、当時は都農のことがそれほど好きではなかったし、毎日楽しく生きることしか考えていなかった。だが祖父の葬儀の際に、祖父の人生について考えてみた。

 祖父は生まれてから死ぬまでほぼずっと都農にいた。かつてはどうであったか知らないが、少なくとも私が物心がついて以降は年に一度の家族旅行すら嫌がり、前日まで毎回渋っていた。

 都農が好きというよりは、都農以外の世界をそれほど知らないからずっと都農で暮らしていたのだろうと思う。グローバリズムが広がりを見せる中で、ある意味真逆な生き方をしていたわけである。

 少し話は飛ぶが、大学の入学式で私の大学の当時の総長は「タフでグローバル」であれといっていた。それと真逆な生き方をしても幸せそうに祖父は生きていた。

 経済的に豊かとは言えず、華やかであったとは言えないが、自分の仕事や家族に誇りを持って生きれたらそれはそれで幸せなのだと思う。

 自分は東京で暮らしている以上祖父のような生き方をすることは無理なのはわかっているが、祖父が幸せそうに生きた都農はどういう町だったのか知りたいと思い郷土研究を始めた。

 

 

 

 

民俗学の学際性

1、学際性の必要性

 島村恭則氏は「フォークロア研究とは何か」[i]の結びにおいてフォークロア研究の学際性を強調している。

 

 もう一つあらためて注意しておきたいのは、フォークロア研究は、人文社会系諸学の学際的状況の中で成立するものだということである。[ii]

 

 同氏によればフォークロア研究とは民俗学を批判的・継承的に発展させたものであるため、民俗学と異なる部分もあるが、民俗学及び他の学問の発展のためにも民俗学の学際性は必要といえるだろう。

 民俗学の学際性について検討される際、多くの場合は隣接している社会学歴史学文化人類学が取り上げられる。島村恭則氏もそうである。しかし他の学問との関わりも考えてみるべきであろう。

 そこで本論では私自身が所属している学部の関係から法学と民俗学との関わりを考えていく。振り返ってみれば民俗学創始者たる柳田国男も法学部卒業であり、日本国憲法審議会に参加していることなどから、民俗学と法学は少なくとも柳田の思考枠組みの上では関わりを持っていたといえるだろう。

 

2、法学と民俗学

 法律が人々のあり方を制約する以上、法学と民俗学の距離は近いといえる。法学の中でも、民俗学にとって関わりが深いのは家族法であろう。以下で家族法民俗学について検討していく。

 

 「家」制度の残滓をほぼ一掃し、形式的な男女平等を実現した新しい家族法は、戦後の日本社会の形成に大きな役割を果たしてきたといってよい。習俗はつねに法律によってリードされてきたのである。[iii]

 

 ここで述べられているように習俗が法律という外生的制度によって動かされることは否定し難いであろう。一般的な人々を研究する民俗学は一般的な人々の行動を制約する法律を常に念頭に置いて考える必要がある。

 

 ところが、1980年代以降、状況は変わりはじめる。戦後30年を経て、ようやく習俗が法律を追い越す兆しをみせているのである。現行法の不備が語られ、手直しが考えられはじめている。[iv]

 

 また現実の習俗に対応しきれなくなった法学の側からも民俗学が求められているといえる。理論的枠組みや規範としての法学はおいておくとして、少なくとも現在の人々のあり方については民俗学の方が法学よりもより正確に捉えているはずであり、何らかの知見は提供出来るだろう。

 例えば夫婦の姓のあり方や、生殖補助医療の登場、扶養義務など多岐に渡る問題を家族法は抱えている。そもそも家族とは何かという議論も展開されている。大村敦志によれば1947年に制定された戦後の新民法は引き算で応急処置的に作られたものであり、現行の家族法は限界を迎えつつあるのであろう。

 先月120年ぶりの債権法大改正がなされたこともあり、法改正の機運は高まっているといえる。このように法改正の機運が高まっている状況下だからこそ、民俗学は現実の人々のあり方についての知見を提供し、法学の発展に大きく貢献出来るだろう。

 

 

[i] 島村恭則 「フォークロア研究とは何か」 (『日本民俗学』278号 2014年5月)

[ii] 同上

[iii] 大村敦志 「家族法 第3版」 有斐閣法律学業書 2010年

[iv] 同上

都農町の誕生

1、明治維新

 1869年の版籍奉還に伴う藩政改革で現在の都農町に属する地域は川北郷都農町とされた。都農町は商店街がある地域一帯で、川北郷はそれ以外の地域だと思われる。

 その後同年10月には北庠という名で両地域は統一される。翌年にはまた北郷という名前に、さらにまた翌年には川北村という名に変わる。

 さらにそのまた翌年には地方行政区の設置に伴い都農村と川北村に分置された。

 所属する県の移り変わりなどはあるが、その後しばらくはこの状態で安定することになる。

 余談だが都農の所属する県は

高鍋県→美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県

 と激しく移り変わっている。

 

2、都農村の誕生

 1888年に県が主導して県内の町村の統合を進めることとなる。

 都農では都農町と川北村が統合をすすめる。両村長とも同一の役場で同一の戸長が行政を行っていたので、統合にあたって大きな問題はなかった。先に見たように別々の行政区としての歴史も長くはない。しかし村名については対立が生じ、当時の戸長が知名度のある都農を村名とすることとした。その名残として現在も大字川北が都農町全域で使われる。

 都農村が成立すると、初の選挙が行われ、村長が選ばれた。

 

3、都農町

 1920年には、人口の多さなどを鑑みて村から町となった。

 その後1950年代には美々津との合併運動があり、平成の大合併の際には都農、川南、高鍋、木城、新富の合併交渉があったが、いずれも上手くいかず、現在にいたるまで町域は変化していない。

 

 

 

都農の歴史⑦ 戦後

1、戦後

 戦後都農への復員者は約1300名、引揚者は約700名と合計2000名が都農に帰ってきた。しかし当時の日本は国土の荒廃と食糧難、激しいインフレに悩まされており、都農もその例外ではなかった。そのため長野、牧内、都農牧場へ入植が進められ、約200戸が入植したものの、その多くが離農した。

 GHQ主導の下行われた農地改革により、都農町内でも自作農が増加し、94%が自作農となり、戦前の二倍となった。

 1954年から57年にかけて、美々津町との合併運動が行われた。結果的には日向市と合併することになったが、この時期の都農は高校の誘致や、町立病院の設立など活気を見せていた。

 人口は1950年にピークを迎え、1万5760人となったがその後緩やかに減少し、1965年には1万3000人ほどとなる。30年ほど人口は横ばいとなっていたが、90年代に入るとまた人口減少が始まり、現在は1万人をわずかに超す程度にまで減っている。

 他に特筆すべきこととしては1977年のリニアモーターカーや1996年の都農ワイナリーの開設があげられるだろう。

 町史は1998年発行のため、それ以降のことは載っていないが、重大事項としては児湯郡内での合併交渉、道の駅つのの開設、ふるさと納税の好況や、東九州自動車道の開通などがある。

都農の歴史⑥ 近代 大正・昭和前期

1、大正時代

  大正9年に都農は村から町へと移行する。都農は児湯郡内でもっとも有権者数が多く、人口も川南と僅差の二番目であった。(町史では人口が郡内で一番とされているが誤記だと思われる。)

 さらに大正10年には日豊本線が都農まで延び、商業、農業、教育など様々な面で都農に大きな影響をもたらした。また大分県から三日月原を中心とした町内への移住が進んだという。 

 大正時代は15年と短いものの、その間に都農町の人口は1.3倍になり一万人に届くまでに増えている。自然増もあるが、県内外からの移住者が多かったようだ。

 

2、昭和前期

 昭和元年には町の人口が一万人を越えた。さらに昭和二年には県立案の開拓移民計画により、三日月原へ多くの人が移住してきた。

 しかし第一次世界大戦後の相次ぐ不況に都農もあえでいた。その中で昭和七年に失業救済事業として福浦湾での港の建設が進められ、都農港が昭和十一年に完成した。

 以降日本は戦争に突き進んでいく。戦時下の都農については以前まとめたので、そちらを参照してください。

 

戦時下の都農 - ひょうすんぼ

 

都農の歴史⑤ 近代 明治

1、明治維新の影響

 1868年の明治維新から2年後には版籍奉還が行われたものの、実体は以前と変わらなかった。しかし版籍奉還から2年後の廃藩置県により名実ともに藩政が廃止される。その後都農は美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県という経過をたどる。行政機構も目まぐるしく変化したが、1898年の郡制施工以降はほぼ今の形に落ち着いた。

 税制も変化し、収穫に応じての物納から土地賦課方式の金納となった。しかし農民からの反発は激しかったようで明治五年には一揆が起き、高鍋に4000人が集結している。ただし武力衝突は起きず、説得に応じて嘆願書の提出にとどまった。また山林の大半が官有となったが、反発が激しかったため多くは返還された。

 

2、明治時代の都農

 都農は西南戦争の影響を大きく受けた。高鍋藩から1200名が薩摩軍に味方し、都農でも人夫や物資の徴発が行われている。直接戦闘が行われることはなかったものの、官軍約2万が都農と美々津に展開し、薩摩軍と対峙したため、負担は大きかった。

 西南戦争後には好景気で商業は盛んになりつつあったが、松方デフレに伴う不況で明治の中頃は商業不振が続く。松方デフレは商人のみならず貨幣経済に組み込まれた農民に打撃を与え、小作人が増加することとなった。自作農家は3割ほどにとどまる。

 その後明治20年代に入ると商業不振は持ち直したと見られ、商社や県内最大出力蒸気機関を備えた製糖工場が建設された。しかし両者とも短期間で廃業に追い込まれた。

 また高鍋の製糸工場の盛況を見て、都農でも製糸工場を設立しようという機運が高まり、山梨に研修生が派遣された。翌年帰ってきた研修生の意見を基に当時の村の一年分の予算を遥かに上回る額を投下して製糸工場が建設された。だがこれも二年で廃業に追い込まれている。ただ全くの無駄であったわけではなく、養蚕技術が村内に普及し、戦前まで農民にとって最大の現金収入源となっていた。

 都農の貧しさや教育水準の低さを嘆く言葉がいくつか残されているが、城下町に比すると農村は当時どこも同様の状況である。むしろ児湯郡内では高鍋の次に栄えていただろう。

 人口増加は著しく明治の間に人口は約1.5倍に増え、大正元年には7595人となっている。

 

都農の歴史④ 近世

1、江戸時代

 都農は江戸時代一貫して、高鍋藩秋月氏支配下に置かれる。

 日向国高鍋領郷村高辻帳(1711年)には現在都農町に属する村々が挙げらている。寺迫村・征矢原村・長野村・瓜生村・岩山村・篠野別府村が記載され、石高は合計すると1983石8斗2升である。

 税制は定免法(過去数年の収穫から計算)がとられ、ある年の年貢率は34.1%である。この他にも穀物や銀・銭などの上納や労働力を夫役として提供しなければならなかった。

 都農は尾鈴山での林業が盛んであったためか商家が多い。都農町の町人は1838年には553人で、これは藩内の町人数の3割近くを占める。藩内において最も大きい町であった。有力な家として赤木家、塩月家、緒方家などがあげられる。

 江戸時代の都農に漁業を本業とする人はほぼいなかったが、江戸時代の末に日向の細島から一本釣りの技術を持つ専業漁師が移住してきて、福原の海岸下浜に定住した。彼等は明治時代に入ると都農の魚市場の実験を握ることとなる。

 現在都農町に属する地域の人口は約5000人ほどであったと考えられる。高鍋藩全体の人口や都農町の町人の人口がほぼ横ばいであったことを考えると、都農においても人口は横ばいであったと思われる。間引きなどは盛んに行われていたようだ。

 人口は横ばいではあるが開墾はなされていたようで、1666年には110町だった水田は1878年は478町となっており、約4倍に増えている。