南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み①
1、はじめに
本論では、南原繁と折口信夫が敗戦直後の日本において行った神道普遍宗教化の試みについて比較検討する。
敗戦直後の時期に日本の思想的基軸を模索した人として他に高坂正堯ら京都学派や柳田国男などがあげられる。その中にあって南原、折口の両名は、キリスト教を参考に神道を普遍宗教化しようとするという似通った思想を展開した。政治学と民俗学という異なった分野を探求する、それぞれの分野の第一人者が、似た思想に同じ時期にたどり着いた背景は興味深く、本論で探っていきたい。
南原は1946年2月の紀元節に東大で「新日本文化の創造」と題する演説を行った。この演説の中で南原は神道普遍宗教化について述べた。以下で要約する。
南原によれば先の大戦の原因は、国民に熾烈な民族意識がなく、おのおのが一個独立の人間としての確立と人間性への発展がなかったことにあるという。そのために人間個人が国体の観念にあてはめられ、自己判断の自由が拘束されてしまった。
しかし敗戦後に天皇が人間宣言を行ったことで神道的教義から天皇が開放され、日本の文化が特殊な民族宗教的束縛を脱することが出来た。単に開放されるだけでは人間の完成をみることは出来ない。人間主観の内面をつきつめ、人間を超えた超主観的な絶対精神すなわち「神の発見」とそれによる自己克服が必要である。そのためには新たな国民精神の創造をしなければならない。
折口は1946年から1949年にかけて「民族教より人類教へ」や「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」といった論考の中で神道の普遍宗教化について考えている。以下で要約する。
折口によれば先の大戦の敗因は、国民の宗教的情熱が足りなかったゆえに神が威力を発揮出来なかったことにあるという。そもそも戦前の神道のあり方は誤っていた。しかし天皇の人間宣言によって宮廷と神道が分離され、神道が普遍宗教化する機運を得た。神道を祖先信仰から切り離して神学体系を整備し、宗教的自覚者が現れるのを待たねばならない。
永友司日記①
定期更新が途絶えてしまい、申し訳ないです。
可能な限り長く続けられるよう2週に一度の更新を目安にしばらくは続けていきたいと思います。
都農神社のホームページで永友司日記が読めるようになっている。
http://w01.tp1.jp/~sr09697901/tunoookamisaidpage22.html
プライベートについての日記というよりは、業務日誌のようなものとなっている。
ホームページの紹介にある通り、永友司は都農神社の神主を務めたがもとは高鍋の八幡宮の神主であった。
都農神社の神主は江戸時代は代々金丸氏が務めてきた。遅くとも1578年には都農神社の神主を務めていたことは文字資料によって確認出来る。また江戸時代に神主職が金丸氏によって受け継がれていたことも文字資料によって確認出来る。金丸氏は現在、八坂神社を中心として都農町内の神社の大半の神主を務めている。
http://w01.tp1.jp/~sr09697901/picturepage/tunojinjyahistory.pdf
一方永友氏は断続的にではあるものの、都農神社の神主を務めており、現職および先代の神主は永友氏となっている。
明治に入ると、国幣社の神主は国からの任官制となった。都農神社も国幣社であるため、神主は任官制となったと思われる。
しかし金丸氏から永友氏への神主の交代は、江戸時代末期の1862年に起きた。金丸氏の跡取りが13歳と幼年であったことが、理由となっているが、永友司日記をもとに確認したい。
竜神
都農の明田の浜に竜神様が祀られている。
場所はわかりにくいが、リニアモーターカーの実験線をくぐって海にでて海沿いを北に歩いたところにある。
以前紹介した浦島太郎伝説と関わりがあるようで、浦島太郎がこの地に上陸したことが由来となっているそうである。(つの町ふるさと物語)
航海の安全と豊漁がご利益となっている。
辺鄙な場所にあるが、信仰を集めているようで、広報つのによれば竜神会主催のもとで神事が行われたようである。
また広報つのによれば、瓦工場の資材をもちよって作られたそうで、ここ100年ほどのことであろう。
広報つの - 都農町(平成30年3月号)
塵添壒囊抄 考察
2週に渡って紹介し た塵添壒囊抄の説話はどのような経緯で生まれたのであろうか。
説話から伺われることは、大きく5つある。
①都農神社成立の権威付け
神功皇后の遠征において勧請されたという形で権威づけをしている。
②航海の安全というご利益
船の守り神として勧請されていることを見るに航海の安全というご利益があったと思われる。おそらく近隣の航海や漁にあたって尾鈴山が目印となっていたのであろう。
③疱瘡(天然痘)の大流行
二人になってしまったというのは、過剰な表現ではあると思うが、疱瘡の大流行により人口が激減してしたことが伺える。
④疱瘡治癒のご利益
疱瘡の流行が収束したのちに、疱瘡治癒のご利益を謳う説話が生まれたと思われる。
また柳田国男の著作に山の背くらべをする逸話が数多く出てくるが、疱瘡と山の背くらべも同系統の逸話であり、そういった逸話の流行が都農に及んでいたことが伺える。
⑤東南アジア?
「頭黒」という謎の存在が登場するが、地中から頭を出すという類型の逸話は東南アジアや台湾に見られるものであるという話しを何かで読んだ。(思い出し次第追記します)東南アジア系の逸話の流行が都農にまで及んでいたことも伺える。
山の背くらべ
いざ「塵添壒囊抄」を現代語に訳してみると、どこかで見覚えがあるような気がした。気になって柳田国男の著作を漁ってみると、「日本の伝説」という著作にほぼ同じエピソードが載っていた。
「日本の伝説」日本に伝わる伝承や伝説をある程度類型化してまとめて掲載したもので1940年に発行された。おそらく「日本伝説名彙」(伝承の辞典)をすでに企図していたのであろう。青空文庫で読めるのでリンクを貼っておいた。
柳田国男自身は「塵袋」から引用したとしているが、「塵添壒囊抄」は「塵袋」を参照して作られたものなので、両者に差異はないと思われる。
もとはほんとうにあったことのように思っていた人もあったのかも知れません。そうでなくとも、よその山の高いという噂をするということは、なるたけひかえるようにしていたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじないに利用する者もありました。例えば昔
"ちりぶくろ【塵袋】",
鎌倉中期の辞書。一一巻。著者不詳(釈良胤とも)。文永・弘安(一二六四〜八八)頃の成立。事物の起源六二〇条を天象・神祇などの部門別に分類し、問答体で示したもの。後に二〇一か条が「嚢鈔(あいのうしょう)」と合体して「塵添嚢抄」となった。
日本国語大辞典, JapanKnowledge
塵添壒囊抄 訳
塵添壒囊抄に都農神社についての記述が存在する。度々取り上げてがいるが、訳を作っておきたいと思う。塵添壒囊抄の説明については最期に引用する。古文は苦手なので修正点があれば指摘してください。
原文
日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、弓射給ケル時、土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、男一人女一人ソ有ケル。其ヲ神人トシテ召仕ヒケリ、其ノ子孫今ニ残レリ。是ヲ頭黒ト云う。始テホリ出サルル時、頭黒サシ出タリケル故ニヤ、子孫ハヒロゴリケルカ。疫病ニ死シ失テ、二人ニナリタリケリ。其ノ事ヲカノ國ニ記ニ云ヘルニハ、日々ニ死ニツキテ僅ニ残ル男女両口ト云ヘリ。是 國守神人ヲカリツカヒテ國役シタガワシムル故ニ、明神イカリヲナシ給テ、アシキ病起リテ死ニケル也。是ヲ思へバ、男女ヲモ口トハ云フベキニコソト覚ルナリ。吐濃大明神疱瘡ヲマジナフニ、必ズイヤシ給トカヤ、カノ國ノ人ハ明神ノ御方ニ向テ、頌文シテ云。五常以汝為高、今者此物高於汝、若有懐憤、宜令平却ト唱ヘテ、杵ト云フモノヲシテ、朝ゴトニ三度アツルコト三日スレバ、疱瘡イユト云ヘリ。コトノツイデナレバシメス。
訳文(敬語略)
日向国古庚郡、通常は兒湯郡と書くところに、吐濃ノ峯という峯がある。神がいて、吐乃大明神という。昔神功皇后が新羅を伐ちに向かった時、この神を勧請して、船に乗せて、船の舳先を護らせた。新羅を伐ちとって帰った後、韜馬ノ峯というところにいて、弓を射た時、土の中より黒き物が頭を出していたのを、弓の筈で掘り出してみると、男一人女一人がいた。それを神人として召し抱え、その子孫が今に残っている。これを「頭黒」という。始めて掘り出された時、頭黒を出していた故で、子孫は繁栄しているだろうか。疫病で死んでしまって、二人になった。そのことをかの國ニ記?いうところでは、日々二人死に僅かに残る男女両口であるという。これは国守が神人を使って国の役として従わせたために、(吐乃大)明神怒りをなして、悪しき病が起こって死んだ。これを思うと、男女を「もろ」という数えるべきであると思う。(数え方についてこの前の文で説明していた)吐濃大明神は疱瘡をまじなうに、必ず癒やすという、かの国の人は明神の方に向かって頌文(仏の功徳をほめたたえる韻文)していう。「常にはは汝(明神)を高いと思っていたが、今この物(疱瘡)汝より高し、もし懐憤があるならば、平らにするべし」と唱えて。杵というもので、朝毎に二三度あてること3日すれば、疱瘡癒えるという。ことのついでであるが示す。
室町時代末期に編さんされた類書。20巻,古刊本20冊。1532年(天文1)の序文に編者の僧某がしるしているように,すでに流布の《壒囊鈔》の巻々に《塵袋(ちりぶくろ)》から選択した201項を本文のまま配し添え,計737項を編さんしたもの。中世的な学殖をもって,仏教・世俗にわたる故事の説明がなされており,中世の学芸・風俗・言語の趣を知るべき直接の資料をもなしている。
世界大百科事典 第2版