ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

備忘録

 色々お話しを伺うことが出来たので、それについての備忘録です。

 

1.都農の夏祭りについて

 2階から御輿を見下ろすのは失礼とされた。

 昔は朝浜まで塩を採りに行き水を撒いていたそうだが、なくなってしまった。

 都農の祭りの見どころである御輿のぶつけけ合いは、神社に入るのを嫌がる御輿を押し入れるためだという話しが伝わっているそうだ

 

2.移住者について

 柳田国男の「九州南部地方の民風」において児湯地域が紹介され、この地には伊予からの移住者が多いと書かれていた。(詳しくは以前書いた記事を参照)都農では三日月原に移住者が多く、土佐からがほとんどだという。商家が多かったそうだ。

 

3.椎葉の話し

 椎葉では柳田が実際には椎葉に来ていないという噂があるそうだ。訪れていないことはないと思うので、「後狩詞記」の実質的な著者が柳田ではないという話しが変形して伝わったのだと思われる。

 

4.去飛の駅

 福原尾に去飛の駅の井戸があると伝わっているという。去飛の駅は場所が確定していないが都農だろうと推定されている。その伝承が本当なら去飛の駅の位置が確定するが、地理的に考えても位置は都農神社のあたりだと思われるので、作られた伝承であろう。

 写真はその井戸。

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5.何故名貫川以南の一部が都農町に含まれるのか

 川南と川北という名は名貫川を境にしての南北が由来となっているのだが、名貫川以南の一部も都農町(川北)に含まれている。これはなぜか。私は川を境としつつもすぐ近くの丘が実質的な境になっているからだと考えていたが、参勤交代が理由となっているそうだ。参勤交代の際に今日はどこに泊まるかを報告するのだが、先に都農と報告したにもかかわらず都農まで辿り着かない場合が多々有り、それをごまかすために名貫川以南の一部を都農に含んだという。