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ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

親分子分②

 前回の記事で見たように親分子分の論理というのは日本の社会に深く根ざしているわけです。それは日本社会に良いものも悪いものももたらしました。

 先に良いものの方を取り上げると、養子制度によって血縁に縛られず能力による登用が可能になったという点で、同時代の西欧の家産官僚制に比べ日本の江戸時代の家産官僚制は優れていたという研究があります。また地方の親分が行き過ぎた中央集権化を防いたという面もあるでしょう。

 しかし親分子分の制度には良くない側面もあります。

 

 顔役は多数の常の心なき者が、今でも必要として大切に守り立てている者である。彼等の任侠は瀕々に人を救ったのみならず、その幾分か並よりも発達した常識は、暗々裡に周囲の生活の基準ともなっている。ひとり恩義の拘束を受けている者だけでなく、平生からその力を知って尊重している者は、迷うて決しかねる問題のあるたびに、いつもその向背をもって参考としようとしている。ことに世間並と御多分に洩れぬということを、安全の途のごとく信じている者には、あたかも魚鳥の群が先に行く者に率いられるごとく、自然に一団となって動かずにはいられなかった。だから普通選挙が選挙人の数を激増し、自由な親分圏外の人々に投票させてみても、わずかな工場地帯の別箇の統制を受けるものの他は、結果はだいたいにおいて、以前と異なるところがなかった。 (柳田国男, 親分割拠 『明治大正世相篇』より)

 

 柳田国男が指摘するように親分子分の関係性が民主主義の発展を妨げているというわけです。

 この点については丸山真男が別の観点から更に踏み込んだ見解を示しています。

 

 日本で特に注意されねばならないのは国家権力の暴力性が問題にされないという事実だ。国家権力だというだけで神聖視してしまう傾向が強い。日本に於て暴力という言葉は常に民衆の側に対してのみ言われるが、暴力は誰が行使しても暴力なのだという事を、国民は肝に銘じて置く必要がある。

 露わに行使された暴力は誰の目にも判断がつく。非常に判別が困難で従って我々が特に警戒せねばならないのは、種々な形での心理的強制である。例えば日本のように身分的な上下関係が常に人間的な平等の観念に優位する傾向のある所では、ただ長上者又は上司の一つの目つき、一つのものごしだけで、事柄の理非を問わずにその意志が強行される場合が少なくない。

 こういう強制力は表面には見えない。然(しか)もしばしば外見的にはデモクラティックな手続をとって現れる場合が多い。例えば会議の際に各人が内面の確信によって意見を述べるのではなく、その中の権威者・勢力者の意見を先回りして予測し、これに迎合した意見を述べる傾向がある‥。こういう暗々裡に行使される暴力は、露わな暴力よりも目につかないだけに、ある意味では民主主義にとってより多くの敵である。ボスや顔役の支配は結局ここに心理的な根源を持っている。…

 戦後の日本社会の民主化政治犯人の釈放から財閥解体農地改革に至るまで-が国際的な圧力をもってしなければ遂行されなかった事を見ても、いかに日本の反動勢力が根強く、これに対する民主主義的な抵抗力がいかにひよわいかが判る。左の暴力だけが強く目に映ずるのは一つにはジャーナリズムのセンセーショナルな報道のためであるし、又一つには露わな暴力は感知しても隠れた暴力には平気で屈服する日本人の意識による事が大きい。日本の社会の封建的基盤を一掃することが、右、左、中間、いかなる暴力をも根絶する唯一の道である。

丸山真男, 丸山真男集⑯「"社会不安"の解剖」)

 

 丸山が指摘するように「身分的な上下関係が常に人間的な平等の観念に優位する傾向」がボスの言うことが事柄の理非よりも正しいという価値観を生み出し、ともすれば国家権力の暴力を肯定することに繋がってしまうわけです。

 

 長くなったので、一旦ここで切って続きをまた書きたいと思います。次回の記事では丸山真男の「日本における倫理意識の執拗低音」や「超国家主義の論理と心理」について触れるので、少しでも興味がある方がいたら読んでいただけるとわかりがいいかもしれません。前者は古事記日本書紀、江戸時代の儒学の知識が少々必要で、後者については文章そのものが難解ですが、読み応えはあるかと思います。