ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

民俗学への思い

 都農への思いと同様に民俗学への思いもいずれ書かなければならないと思っていた。これも同じように文章にするのが難しく、とりとめのないものになってしまった。

 

 民俗学者の文章に一番最初に触れたのは中学3年の時に読んだ「遠野物語」であった。夏休みの読書感想文の課題文の一つとなっていたため仕方なく読んだのだが、当時の私にとっては読みづらく途中で読むのを諦めてしまった。

 しかし高校2年のころに小林秀雄の「信じることと知ること」に引用されていた柳田国男の「山の人生」には大きな衝撃を受けた。読みやすい文章なので是非読んでいただきたい。 

 

 山に埋もれたる人生あること 

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕朽ちつつあるであろう。

 (柳田国男 青空文庫より)

 

 柳田国男の卓越した文章力によるものなのか、それとも飢餓という現実がつい最近までこの国に存在していたという事実をリアリティをもって感じたからなのかは、わからない。ただ、頭のなかに情景がはっきりとイメージされ、その情景は今でも頭から離れない。

 この文章との出会いが民俗学、というよりは柳田国男に対して興味を持つきっかけとなった。しかしこの時は一時的な関心を持ったにとどまっていた。というのも同時期に読んだ丸山真男の『「である」ことと「する」こと』にさらに大きな衝撃を受けて、関心がそちらに向いてしまったからだ。

 

 ところが大学受験で日本史を選択していた影響からか、はたまた受験期の精神的な不安定さによるものからか、受験が終わるころには寺社に興味を持つようになっていた。(余談だが、世界史・日本史選択であったためか、受験が終わるころには歴史オタクにもなっていた。)そのうち寺社を訪れるだけでは物足りなくなり、関連する本を読むようになった。そうするといつの間にか民俗学関連の本にも関心を持つようになっていた。

 一方で丸山真男に衝撃を受けて以来の政治思想についての関心も持続しており、表には出てこない民衆の思想にも興味を持つようになっていった。柄谷行人の「遊動論 柳田国男と山人」はその一助となった。

 

 こういった学術的な関心とは別に、親から都農あたりの民話を幼いころから何度も聞かされていたことや、伝統的な慣習を叩きこまれたことも大きいだろう。

 

 そういうわけで大学2年の後半ごろには民俗学に興味を持つようになり、柳田国男宮本常一を中心とした民俗学者の本を読むようになった。2年の冬に遠野を訪れたことで、自分でも何か調査したいと思うようになり、都農の調査を始めるようになって今に至る。(現在は大学3年)

 

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 写真は遠野を訪れた時のもの。河童淵と呼ばれている場所だが、あまり河童は出そうにない。遠野は思っていたよりずっと都会であった。(都農に比べれば)

 

 ※大学の学部は法学部(政治学科)であり、専門的に勉強をしているわけではない。あくまで趣味程度のものです。