ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

永友司日記②

永友司日記① - ひょうすんぼ

 前回からだいぶ時間が空いてしまいましたが、検討を続けます。

  

文久二年( 一八六二) p28ーp32
一一正月廿三日御冬都農金丸肥前死去。倅和太郎酉ノ年十三才、幼少ニ付、後
見之義和太郎親類之者より頼来り御奉行所へも右之趣届差出置候処、左之通
り求人殿より御達有之。
明後廿五日六ツ時、御供揃御乗馬ニ而一ノ宮江被遊御参詣候段被仰出候間、神前
向其外掃除不都合無之様、取斗可被申且被遊御参詣候節者、御幣上候義其方相勤可
被申、尤美々津立岩へも被遊御参詣候ニ付、御出掛類、御帰掛類之所者相分不申候
間、早朝より相詰罷有候而、安政四巳ノ十二月、被遊御参詣候節之通り万端不都合
無之様、取斗可被申候。以上。
(中略)
一同日金丸和太郎方へ遺跡無相違罷□候。尤和太郎并赤木源兵衛両人共ニ病
気ニ付、名代税田正蔵罷出ル。
八幡宮御殿向所々并御供屋損候ニ付、御見分之上御修覆被成下候様奉願候。
(中略)
一二月廿二日都農一宮神主金丸和太郎方幼年ニ付、私方江一躰請持仕候様被
仰付奉畏候、然処遠方掛々之義ニ付、朝夕之神前勤向之義者正祝子石見方江
被仰付候得共、御発駕御下向其他臨時之御参詣、且御祭礼等之節者私方差越
候而相勤可候義ニ御座候哉。又ハ正祝子石見方相勤候而宜御座候哉、此段奉
伺候。以上。
二月廿二日都農社受持永友司
(中略)
一四月廿八日
一檜元木拾五本末ノ口六寸長弐間
一杉元木拾本末ノ口六寸長弐間
右者尾鈴宮破損ニ相成候ニ付此節修覆仕可申候間、右之元木御免被成下候様
奉願候。尤、金丸和太郎幼年ニ付、私方へ一躰請持被仰付候間、尾鈴宮も同
様之義ニ御座候間、私方より奉願候ニ付、何卒御免被成下様奉願候。以上。

 

 都農神社の神主を務めていた金丸通敏は文久元年12月4日に34歳の若さでなくなった。そのあとを継ぐ和太郎が13才と幼年であったため、都農側から申し出があり、家老の命により、永友司が都農神社の神主に就くこととなった。

 なお尾鈴神社の神主も同様の理由により、兼任することとなる。

 

萬延元年( 一八六〇) p19

八月十五日晴。
都農金丸肥前母忌中ニ付、此方へ頼来り候間長照寺へ名代相頼候処、長照寺
より色々六ケ敷義申出候間、以来都農正祝子名代相勤候様都農へ申遣筈 

 

 永友司は城下の神社の神主と性格上、頻繁に藩とやりとりをしており、藩からの信頼も厚かったのであろう。また都農神社との関係性を伺わせる記述は少ないが、上記の記述から頼りにされていたことが伺える。そういった理由で永友司に都農神社の神主を務める依頼がきたのであろう。

 ③に続きます。