都農参り
江戸時代にたびたびお蔭参りと呼ばれる、伊勢神宮参拝が流行したことはよく知られている。同様の現象は出羽三山など有名な寺社でも発生している。
高鍋藩という狭い範囲ではあるが、都農参りとでも呼ぶべき現象が発生していたようである。
1776年
近年猥に霧島代参大勢差師起に付ご停止尤も右代り都濃社尾鈴社へ勝手次第可
参被仰出
續本藩実録4
意訳:霧島参りが盛ん過ぎるため、停止する。そのかわりに都農神社、尾鈴神社へ好きに参ってよい
高鍋藩では霧島参りが盛んであったようであるが、霧島は他藩であり行政上厄介が多かったのであろう。代わりに藩内にある都農神社への参詣を促したものと思われる。
1782年
高鍋上江持田椎木高城日置三納代虫付高鍋村同上江より都濃社へ祈祷の為参詣
仕度願出大勢は無用一村1人づつ名代差立候様被仰出
續本藩実録5
意訳:高鍋藩内より都農神社へ参詣願いをする際に大勢で来る必要はなく、各村一人の名代を立てればよい。
参詣願いをするものが大勢いたということは、藩の目論見どおり、霧島参りから都農神社参りへの転換促進が多少であれ成功したものと思われる。
大規模な参詣ではないため記録には残っていないが、恐らくは高鍋藩内で都農神社参りというものが江戸時代には行われていたのではないかと思われる。