ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

永友司日記③

明治三年(一八七一)p101

七月廿一日永友司
左局御承事様
都農一宮神主金丸通治兼治病身( 俗ニ云ヨイヨイ病也) 罷有何分血□相続候様
無之候ニ付、水町和太郎跡相続仕居候ニ男林吉方此節、双方熟談之上呼戻し、
金丸之家血□相続為支度、医師容躰書相添願出候処、願之通り七月廿三日御
免ニ相成ル。尤御用難相勤候間、司方登城承り候。
私孫宗年義両三年以前より足痛罷有未タす切ト平癒不致折ニ相発候故、登坂
之上療治為支度甚願之処、幸此節綾部考之介来ル十日より登坂致候趣ニ付、
随従致療養為支度且又当時皇学修業も相成丈為致度御座候間、早々御免被成
下候様此段奉願候。以上。

 

 上記記述を読む限り、単に和太郎が幼いからという理由のみならず、適齢期の神主がヨイヨイ病(中風)を発症していたことも関係しているのであろう。

 永友司は自身の病もあって、このタイミングで金丸家に都農神社の神主を相続させることを模索している。それは叶ったようだが、国幣社となった都農神社の神職の任官は中央からなされるようになったため、翌年には堀口章介なる人物が都農神社の神主に就くこととなる。

  

 今回は神官の交代というテーマで読んでみたが、明治維新前後の雰囲気を神職という目線から見ることができて面白かった。(ほとんどは仕事上の記録である)

 廃仏毀釈についての情報を得られればと思ったが、それらしき記述は下記を除き、見当たらなかった。1872年までの日記であるため、高鍋藩ではそれ以降に廃物希釈が活発化した可能性があるが、全国的なピークは1868-1871年である。そのため意図的に、あるいは業務と関係ないため記述しなかった可能性がある。

 

明治二年(一八六九)p85

三月十二日是迄寺社与相唱来候得共、以来社寺与相唱候事。
右之通従朝廷被仰出候趣有之候ニ付、前断之通此節御改革ニ相成候間可被其
意候。

 廃物希釈というよりは、神仏分離令の発布について記述されただけである。

 

 都農神社のホームページで大泉寺文書が公開されているので、テーマを決めて読みすすめていきたいです。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/daisenjimonjyo.pdf