ひょうすんぼ

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南原繁と折口信夫による神道普遍宗教化の試み③

キリスト教との関わり

 両者ともに普遍宗教であるキリスト教との関わりが、神道の普遍宗教化を展開する背景になったと思われる。

 南原は21歳のときに内村鑑三の影響によってキリスト教無教会主義に入信し、以降も信仰を続けている。だからこそ以下のように神道を普遍宗教にしようと試みたのである。

 民族宗教的な日本神学からの解放は、単なる人文主義理想よって代置し得られるものでなく、宗教に代うるには同じく宗教をもってすべく、ここに新たに普遍人類的なる世界宗教との対決を、いまこそ国民としてまじめに遂行すべき秋であると思う。」[1]

 一方でキリスト教と無関係なように見える折口もキリスト教の影響を受けている。そもそも民俗学は江戸時代以前の国学の系譜をひいており、折口の師匠である柳田国男の父も平田派の神官であった。そして平田篤胤キリスト教の影響を大きく受けていたのである。そのためキリスト教の思想が民俗学にも流れていたと思われる。

 また折口は終戦前にキリスト牧師集団に聞いた話に大きな衝撃を受けている。

 「「アメリカの青年達は、我々と違って、この戦争にえるされむを回復する為に起された十字軍のような、非常な情熱をもち初めているかもしれない」という詞を聴いた時に、私は愕然とした。」[2]

 こういった経験から折口信夫神道普遍宗教化の着想を得たと思われる。

 

天皇人間宣言が与えた影響

 両者ともに天皇人間宣言によってその神格化が否定されたことを神道普遍宗教化の重要な契機としている。

 「本年初頭の詔書はすこぶる重大な歴史的意義をもつものといわなければならぬ。すなわち、天皇は「現人神」としての神格を自ら否定せられ、天皇と国民との結合の紐帯は、いまや一に人間としての相互の信頼と敬愛である。これは日本神学と神道的教義からの天皇御自身の解放、その人間性の独立の宣言である。

 それは同時に、わが国文化とわが国民の新たな「世界性」への解放と称し得るであろう。なぜならば。ここに初めて、わが国の文化がわれに特殊なる民俗的宗教的束縛を脱して、広く世界に理解せらるべき人文主義的普遍の基礎を確然と取得したのであり、国民は国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る根拠を、ほかならぬ詔書によって裏づけられたからである。」[3]

 

 「神道と宮廷とが特に結ばれて考へられて来た為に、神道は国民道徳の源泉だと考へられ、余りにも道徳的に理会されて来たのであう。この国民道徳と密接な関係のある神道が、世界の宗教になることはむつかしい。(中略)しかしながら天皇は先に御自らの「神」を否定し給うた。それにより我々は、これまでの神道と宮廷との特殊な関係を去ってしまつた、と解してよい。」[4]

 以上で引用したように神道が日本国民のみの教義から脱却して、普遍宗教になるためには天皇人間宣言は不可欠なものであったため、両名とも同様の議論を展開した。

 

[1] 南原繁 同上

[2] 折口信夫 同上

[3]南原繁 同上

[4] 折口信夫 同上『民族教より人類教へ』