ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

永友司日記①

 定期更新が途絶えてしまい、申し訳ないです。

 可能な限り長く続けられるよう2週に一度の更新を目安にしばらくは続けていきたいと思います。

 

 都農神社のホームページで永友司日記が読めるようになっている。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/tunoookamisaidpage22.html

 プライベートについての日記というよりは、業務日誌のようなものとなっている。

 

 ホームページの紹介にある通り、永友司は都農神社の神主を務めたがもとは高鍋八幡宮の神主であった。

 都農神社の神主は江戸時代は代々金丸氏が務めてきた。遅くとも1578年には都農神社の神主を務めていたことは文字資料によって確認出来る。また江戸時代に神主職が金丸氏によって受け継がれていたことも文字資料によって確認出来る。金丸氏は現在、八坂神社を中心として都農町内の神社の大半の神主を務めている。

http://w01.tp1.jp/~sr09697901/picturepage/tunojinjyahistory.pdf

 一方永友氏は断続的にではあるものの、都農神社の神主を務めており、現職および先代の神主は永友氏となっている。

 明治に入ると、国幣社の神主は国からの任官制となった。都農神社も国幣社であるため、神主は任官制となったと思われる。

 しかし金丸氏から永友氏への神主の交代は、江戸時代末期の1862年に起きた。金丸氏の跡取りが13歳と幼年であったことが、理由となっているが、永友司日記をもとに確認したい。