ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

塵添壒囊抄 訳

  塵添壒囊抄に都農神社についての記述が存在する。度々取り上げてがいるが、訳を作っておきたいと思う。塵添壒囊抄の説明については最期に引用する。古文は苦手なので修正点があれば指摘してください。

 

 原文

 日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカクニ、吐濃ノ峯ト云フ峯アリ。神ヲハス、吐乃大明神トソ申スナル。昔シ神功皇后新羅ヲウチ給シ時、此ノ神ヲ請シ給テ、御船ニノセ給テ、船ノ舳ヲ護ラシメ給ケルニ、新羅ヲウチトリテ帰リ給テ後、韜馬ノ峯ト申ス所ニヲハシテ、弓射給ケル時、土ノ中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ、弓ノハズニテ堀出シ給ケレバ、男一人女一人ソ有ケル。其ヲ神人トシテ召仕ヒケリ、其ノ子孫今ニ残レリ。是ヲ頭黒ト云う。始テホリ出サルル時、頭黒サシ出タリケル故ニヤ、子孫ハヒロゴリケルカ。疫病ニ死シ失テ、二人ニナリタリケリ。其ノ事ヲカノ國ニ記ニ云ヘルニハ、日々ニ死ニツキテ僅ニ残ル男女両口ト云ヘリ。是 國守神人ヲカリツカヒテ國役シタガワシムル故ニ、明神イカリヲナシ給テ、アシキ病起リテ死ニケル也。是ヲ思へバ、男女ヲモ口トハ云フベキニコソト覚ルナリ。吐濃大明神疱瘡ヲマジナフニ、必ズイヤシ給トカヤ、カノ國ノ人ハ明神ノ御方ニ向テ、頌文シテ云。五常以汝為高、今者此物高於汝、若有懐憤、宜令平却ト唱ヘテ、杵ト云フモノヲシテ、朝ゴトニ三度アツルコト三日スレバ、疱瘡イユト云ヘリ。コトノツイデナレバシメス。

 

 訳文(敬語略)

 日向国古庚郡、通常は兒湯郡と書くところに、吐濃ノ峯という峯がある。神がいて、吐乃大明神という。昔神功皇后新羅を伐ちに向かった時、この神を勧請して、船に乗せて、船の舳先を護らせた。新羅を伐ちとって帰った後、韜馬ノ峯というところにいて、弓を射た時、土の中より黒き物が頭を出していたのを、弓の筈で掘り出してみると、男一人女一人がいた。それを神人として召し抱え、その子孫が今に残っている。これを「頭黒」という。始めて掘り出された時、頭黒を出していた故で、子孫は繁栄しているだろうか。疫病で死んでしまって、二人になった。そのことをかの國ニ記?いうところでは、日々二人死に僅かに残る男女両口であるという。これは国守が神人を使って国の役として従わせたために、(吐乃大)明神怒りをなして、悪しき病が起こって死んだ。これを思うと、男女を「もろ」という数えるべきであると思う。(数え方についてこの前の文で説明していた)吐濃大明神は疱瘡をまじなうに、必ず癒やすという、かの国の人は明神の方に向かって頌文(仏の功徳をほめたたえる韻文)していう。「常にはは汝(明神)を高いと思っていたが、今この物(疱瘡)汝より高し、もし懐憤があるならば、平らにするべし」と唱えて。杵というもので、朝毎に二三度あてること3日すれば、疱瘡癒えるという。ことのついでであるが示す。

 

 室町時代末期に編さんされた類書。20巻,古刊本20冊。1532年(天文1)の序文に編者の僧某がしるしているように,すでに流布の《壒囊鈔》の巻々に《塵袋(ちりぶくろ)》から選択した201項を本文のまま配し添え,計737項を編さんしたもの。中世的な学殖をもって,仏教・世俗にわたる故事の説明がなされており,中世の学芸・風俗・言語の趣を知るべき直接の資料をもなしている。

世界大百科事典 第2版