大己貴命と大国主命
都農神社の祭神は大己貴命(別名 大国主命)ということになっている。
大己貴命と大国主命を単純に同じ神として考えてよいのかという問題がある。古事記には大国主命の一名として大己貴命があげられていることを根拠とすることが多いが、名前が異なるというところにスッキリしないものを感じていた。しっくりくる解釈に出会ったので紹介したい。
世界としては、イザナギ・イザナミが作りおえたわけで、オオナムチが国作りをになうことがないものとして、第八段は形づくられる。だから、オオナムチは、降臨の場面でもオオクニヌシと呼ばれることがない。「古事記」では、オオナムチは、「大国主」と呼び直された。兄弟たちを追い、地上全体を支配する神となって、国作りを完成する存在だから、そう呼ばれるのであった。いいかえれば、オオクニヌシは、「古事記」の世界の物語のなかではじめて存在したのであった。
古事記と日本書紀 (講談社現代新書) 新書 – 1999/1/20 神野志 隆光
日本書紀と古事記は全く別の神話だという説が議論の前提としてある。日本書紀には中国の陰陽論が思想的背景として流れていれ、古事記にはムスヒという思想が背景として流れていると神野志は考えている。
そもそも記紀神話という形で日本書紀と古事記をセットにする考え方自体が新しいもので、明治以降に作られたものである。現在も記紀をセットにする考え方は一般的だとは思うが、神野志隆光以降は学説上は区別する考え方が通説となっている。(そういう話しを聞いたので本当かどうか定かではない)
大国主と大己貴命の呼称の違いも、記紀が別の思想を背景としているものとして考えればしっくりくる。