ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農の歴史⑥ 近代 大正・昭和前期

1、大正時代

  大正9年に都農は村から町へと移行する。都農は児湯郡内でもっとも有権者数が多く、人口も川南と僅差の二番目であった。(町史では人口が郡内で一番とされているが誤記だと思われる。)

 さらに大正10年には日豊本線が都農まで延び、商業、農業、教育など様々な面で都農に大きな影響をもたらした。また大分県から三日月原を中心とした町内への移住が進んだという。 

 大正時代は15年と短いものの、その間に都農町の人口は1.3倍になり一万人に届くまでに増えている。自然増もあるが、県内外からの移住者が多かったようだ。

 

2、昭和前期

 昭和元年には町の人口が一万人を越えた。さらに昭和二年には県立案の開拓移民計画により、三日月原へ多くの人が移住してきた。

 しかし第一次世界大戦後の相次ぐ不況に都農もあえでいた。その中で昭和七年に失業救済事業として福浦湾での港の建設が進められ、都農港が昭和十一年に完成した。

 以降日本は戦争に突き進んでいく。戦時下の都農については以前まとめたので、そちらを参照してください。

 

戦時下の都農 - ひょうすんぼ