ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農の歴史⑤ 近代 明治

1、明治維新の影響

 1868年の明治維新から2年後には版籍奉還が行われたものの、実体は以前と変わらなかった。しかし版籍奉還から2年後の廃藩置県により名実ともに藩政が廃止される。その後都農は美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県という経過をたどる。行政機構も目まぐるしく変化したが、1898年の郡制施工以降はほぼ今の形に落ち着いた。

 税制も変化し、収穫に応じての物納から土地賦課方式の金納となった。しかし農民からの反発は激しかったようで明治五年には一揆が起き、高鍋に4000人が集結している。ただし武力衝突は起きず、説得に応じて嘆願書の提出にとどまった。また山林の大半が官有となったが、反発が激しかったため多くは返還された。

 

2、明治時代の都農

 都農は西南戦争の影響を大きく受けた。高鍋藩から1200名が薩摩軍に味方し、都農でも人夫や物資の徴発が行われている。直接戦闘が行われることはなかったものの、官軍約2万が都農と美々津に展開し、薩摩軍と対峙したため、負担は大きかった。

 西南戦争後には好景気で商業は盛んになりつつあったが、松方デフレに伴う不況で明治の中頃は商業不振が続く。松方デフレは商人のみならず貨幣経済に組み込まれた農民に打撃を与え、小作人が増加することとなった。自作農家は3割ほどにとどまる。

 その後明治20年代に入ると商業不振は持ち直したと見られ、商社や県内最大出力蒸気機関を備えた製糖工場が建設された。しかし両者とも短期間で廃業に追い込まれた。

 また高鍋の製糸工場の盛況を見て、都農でも製糸工場を設立しようという機運が高まり、山梨に研修生が派遣された。翌年帰ってきた研修生の意見を基に当時の村の一年分の予算を遥かに上回る額を投下して製糸工場が建設された。だがこれも二年で廃業に追い込まれている。ただ全くの無駄であったわけではなく、養蚕技術が村内に普及し、戦前まで農民にとって最大の現金収入源となっていた。

 都農の貧しさや教育水準の低さを嘆く言葉がいくつか残されているが、城下町に比すると農村は当時どこも同様の状況である。むしろ児湯郡内では高鍋の次に栄えていただろう。

 人口増加は著しく明治の間に人口は約1.5倍に増え、大正元年には7595人となっている。