ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

都農の歴史③ 中世

1、鎌倉時代

 日向國図田帳(1197年)によると、都農は殿下御領と呼ばれる藤原氏の荘園であり、「新納院百二十丁、右児湯郡内地頭掃部頭」に含まれる。新納院とは都農を含む荘園の名で、木城・高鍋・都農・川南を中心とした地域を指す。掃部頭とは源頼朝側近の中原親能のことである。

 

2、室町時代

 九州は南朝勢力が強く、今川了俊が14世紀末に九州を平定するまで争いが激しかかった。その様子が都農の領主の変遷にも見られる。

 室町時代初頭は都農は島津氏の分家である新納氏の支配下にあった。しかし1357年には土持氏に支配が移る。さらに1457年には伊東氏が土持氏に勝利し、都農の辺りは伊東氏の支配下におかれた。

 

3、戦国時代

 伊東氏は日向国内での勢力争いを優勢にすすめるも、木崎原の戦いで島津氏に敗北して劣勢となり、1577年には都農も含めた日向国一帯は島津氏の支配下に入る。その後伊東氏は大友氏に救援を求め、それに応じた大友氏が日向国に入る。しかしその大友氏も耳川の戦いで島津氏に破れた。

 大友氏が都農を制圧した際に都農神社を焼き払ったため、戦国時代以前の都農町についての文字史料はほぼ失われてしまった。

 耳川の戦いと都農との関わりについては以前まとめたので、以下のリンクを参照してください。

耳川の戦いと都農 - ひょうすんぼ

 

 だがその島津氏も秀吉による九州征伐に破れ、1587年には秋月氏が都農も含めた高鍋藩一帯に入る。その後の関ヶ原の戦いでも秋月氏は上手く立ち回り、所領は安堵され、高鍋藩が成立する。