南原繁と折口信夫 その二
前回の記事の続きになります。今回は前回取り上げた南原繁と折口信夫の論考についての批判になります。
南原繁に対する批判は丸山真男によってなされました。1964年に行われた南原繁と丸山真男の座談会において南原は以下のように述べます。
民族の個性があって、ほんとうの祖国日本という意味においての民族の共同体はいつまでも残さなければならない。世界の共同体ができても、これを踏まえてのものですね。それはいわば神的秩序だと思う。
そこに私は、日本の神話なり、歴史を生かす道があると思う。たとえばあの神話においては、われわれの祖先は遠く昔から日本民族の永遠性を信じている。どこの民族もそうでしょうが、ことに神国といっているところに、象徴的な意味がある。
(戦後日本の精神革命)
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こういった形で南原は戦後20年近く経っても神道の普遍宗教化を考えているわけです。しかし南原の弟子でもある丸山は気を使いながらもこれを批判します。
神話に普遍的意味を与えるのは非常に難しいところだと思うのです。「神の国」という概念は、やはり先生は、根本にキリスト教的な考え方から考えられますけれども、日本の実際では氏族神になるのですね。ですから、皇室の祖先だし、どこまで遡ってみても祖先神はやはり特殊者にすぎない。特殊者を越えた、普遍者という観念にはならないのですね。
(同上)
日本書紀なり古事記なりを読めばわかりますが、大抵の神様は何某かの氏族の祖先なわけです。例えば饒速日命が物部氏の祖先だというように。
キリスト教における神様を創造していただければわかりやすいかと思いますが、普遍的な神というのは全てを超越した絶対的な存在であって、キリストを除けば誰かの祖先だとかそういうことはないわけです。現実の人と隔絶した存在であるところに普遍性があり、それが民族的な宗教にとどまる神道とキリスト教との大きな違いなわけです。
丸山がここで指摘しているのは日本の神は氏族神であって、人と隔絶した普遍的な神にはなれない。結局氏族、民族の神にしかなれない。そういうことであります。
これは最もな指摘であるのですが、折口の神道普遍宗教化には柄谷行人によって丸山と真逆の批判がなされるのであります。