ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

問題意識

 自分の中の問題意識の一つとして格差というものがあります。共産主義的な思想を持っているからでも、搾取だなんだと喚き散らしたいからでもなく、ただ単に中産階級の減少による社会の不安定化を危惧しているだけです。

 そういう背景で注目したのが「協同自助」の思想なのであり、だからこそ何度も記事を書いているわけなのですが、また書きます。

※例のごとく試論です。

 

 「協同自助」の思想は山村特有のものなのかという疑念をずっと抱いていました。そしてその疑念はNHKの新日本風土記で伊根という町に「同等一栄」という思想があるということを知ってより強まりました。「協同自助」の思想のようなものは山村特有のものではなく、本来はどこでも見受けられるものではないかと。

 何の確証もないのですが、「協同自助」の思想というのは自生的秩序ではないのかと思うのです。三代続く長者はいないというような民話やことわざがあったりするように(都農にもあります)、ある代で富んだ家系がその後も富み続けられる保証などはどこにもないわけです。ある家の当主は自分の後の代の能力や状況について把握することは出来ません。その意味でロールズの言うところの「原初状態」に近い状態にあるわけです。もちろん現状の貧富の差はあるわけで、完全に一緒なわけではないのですが、家の存続というものを考えた時に、ロールズの言うところの「原初状態」の場合と同じようにリスクが少なくなるように「正義の選択」をすると言えないでしょうか。

 そういった選択は都市社会ではなされないでしょう。何故なら「正義の選択」は後の代まで考えた場合に初めてなされるもので、長期的かつ緊密な関係が不可欠になります。ロバート・エリクソンがアメリカの牧場を観察して明らかにしたように、長期的かつ継続的で情報が共有されやすい社会では独自の秩序が生まれやすいわけです。そしてそういった社会は都市のように流動的なものではなく、農村のような人の出入りが少ないものでしょう。山村は平地の農村に比べてより閉鎖的で、明治維新後の社会の急速な流動化の影響を受けづらかったために柳田国男が観察出来たのではないのかと思うわけです。

 

 

 柄谷行人さんは「協同自助」の思想の背景には「遊動性」があると述べていましたが、真逆の「固定性」が背景にあるわけです。

 最初に自生的秩序という言葉を用いたのはハイエクを少し念頭に置いているからで、自生的秩序たる「協同自助」の思想を私がどうにかして普及させるというようなことは出来ないでしょう。

 

 ロールズの議論を無理矢理もってきたり(そもそもロールズに対する批判も多い)、実証的な裏付けがなかったりと穴だらけな試論なのですが、備忘録として書き留めておきます。