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ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

親分子分③

 親分子分②の続きになります。

 今回は更に踏み込んで親分子分を中心とした社会形態がどういった倫理意識をもたらし、それがどういう結果となったのか考えていきます。考えなければならないことが多く、まだ試論の段階なので、かなり荒い議論となっていますがその点ご理解ください。

 

 「日本における倫理意識の執拗低音」丸山真男 (必要な部分の要約)

 日本神話から動機の純粋性を「善」とする傾向が読み取れる。「きよくあかき」と「きたなき」という言葉の用法に注目。ヤマトタケル熊襲平定をその例とする。集団的功利主義的な価値判断。

 

 親分子分を中心とした社会の価値判断はどのように行われるのか。自分にとってどうであるかよりも、自分が所属する親分子分の集団への利益で考えるであろう。それが丸山の指的するような集団的功利主義的な価値判断を生み出したと思える。

 

 「超国家主義の論理と心理」丸山真男 (必要な部分の要約)

 「超国家」とは、心理や道徳などの価値が個人の良心に委ねられず、国家がその究極的実体として存在することをいう。「私事」と「公」の線引きがない日本の場合、国家が個人の内面に介入すると同時に、私的利害が国家の内部へと無制限に侵入する。

 戦前の日本の場合は天皇に絶対的価値が体現していた。天皇のいかなる行動も正義となり、権力は倫理的に粉飾される。そしてそこでは天皇との距離が価値基準となる。国民は天皇天皇へより近い者の心情を推し量って行動するため、責任意識がない。その中で上からの抑圧を下へ移譲する。

ただ天皇も主体的な行為者であるわけではない。また天皇の権威自体は伝統によるものである。

 

 そして天皇を究極的な親分。すなわち親分の親分として捉えるとどうなるか。

戦前の日本は親分子分の体系の延長線上の国家であったといえ、それは丸山が述べるような無責任の体系を内包するものであった。

 そうすると親分子分関係を中心とした社会が天皇ファシズムをもたらしたのだとも考えられる。思えば親分子分①で例に出したイタリアでもスペインでもファシズムは成立している。

 親分子分の関係は前近代的な国家には適合しうるものであったのかもしれないが、以上で見てきたように近代国家にはそぐわないものであった。

 親分子分という関係性は消滅しかかっているとはいえ、その中で生れた倫理意識は我々の中に未だ根付いている。その倫理意識と向き合う必要性があるのではないかと思う。

 

 このような試論をすることで何がしたかったのかというと、親分子分を原理とした社会とそこから生み出される意識を用い、丸山の主張のいくつかを体系化したかったのだ。浅い理解しか出来ていないので詳しくは述べないが、丸山は武士のエートスにも関心を持っていた。そういった武士のエートスもこの親分子分の関係から生れてきたのではないかと考えている。

 このように親分子分の概念を用いれば、日本の思想的な特性の根源がどこにあるのか明らかに出来るのではないか。そういう思いが私にはある。