レヴィ=ストロース講義録
レヴィ=ストロースは文化人類学者の中でもっとも有名な人物といっても過言ではないであろう。また構造主義を論じた人としても知られる。氏は日本の文化についても造詣が深く、柳田国男や本居宣長らの著作も読んでいるようです。今回はそのレヴィ=ストロースが30年前に日本で行った講義を書籍化した「レヴィ=ストロース講義」ついて書きます。(文化人類学と民俗学との関係は私にもよくわからない。文化人類学の方がより範囲が広いという認識はあるが、比較民俗学というものもある。)
講義をもとにしたものであるからか、内容もわかりやすく、あまり文化人類学の本を読んだことがないというかたにもおすすめ出来ます。ただ質問の部分については読み飛ばしていいかもしれます。少しわかりづらい質問が多く、またレヴィ=ストロースが講義で話した内容を取り違えているような質問もいくつか見られます。
※以下は講義の内容を取り違えた質問について
レヴィ=ストロースは未開地域の文化を見習うべきだといっているわけではなく、また未開地域の文化を積極的に保護しようといっているわけではありません。未開地域の文化を参考にしよう、破壊しないようにしようとは言っていますが、見習うと参考、積極的な保護と破壊しないようにするは似たように見えてまるで違います。見習うという考えの中には優劣のようなもの(未開社会に方が優れている)がその根底に見え隠れしており、積極的に保護しようという考えにも自らが優越的な地位にあるかのような考えが透けて見えます。そういった価値判断をやめよう(これは少し言いすぎな気がしないでもないですが)ということを、レヴィ=ストロースは質問に答える形で示しています。講義の中でこの点については何度も述べてられてるのですが、取り違えているような質問が多いので注意してください。
書評をしようかと考えていたのですが、上手くまとめることが出来ず、また私が考えているようなことを本文から引用した方が伝わりやすいと考えたので、以下に引用します。
生産は消費を呼び、消費がまたいっそうの生産を求める。全人口のうち、工業の直接、関節の要求にいわば吸い寄せられた部分はますます大きくなり、巨大都市に集中し、人工的で非人間的な生活を強いられることになります。
民主的諸制度の運営と、社会による保護の必要から作りだされ、わがもの顔に幅をきかせている官僚機構は、社会に寄生し、やがては社会全体を麻痺させようとしています。
現代社会は、このようなモデルによっているかぎり、近い将来統治不可能なものとなりはしないだろうか、とさえ思われるのです。
長いあいだ、少しの疑いもさしはさまれずにきたはてしない物質的、精神的に対する信仰は、今までになく深い危機に見舞われています。西欧型の文明は、自らに課してきたモデルを失い、またこのモデルを他の文明に示す勇気をも失いました。
こうしたとき、視線を他へめぐらせ、人間の条件についての私たちの省察を閉じ込めてきた、伝統的な枠を広げるべきではないでしょうか。長いあいだ、私たちが踏みとどまってきた狭い地平の内部での経験より、いっそう多様で異なった社会での経験を、私たちの省察にとりこむべきではないしょうか。(P15、16)
人類学の第一の教訓として、私たちは次のことを教えられるのです。すなわち、私たち自身のものに比べて、どれほど衝撃的で非合理に見えるものであっても、それぞれの慣習や信仰は、ある体系を成していること、そしてその内的均衡は、数世紀をかけて達成されたものであり、たったひとつの要素を除くだけでも、全体を解体させる危険があるということです。( P63)
断片的な事実というものだけに注意を奪われてはなりません。西欧の文字はフェニキアに始まった、紙、火薬、羅針盤を発明したのは中国、ガラスと鋼鉄はインドに始まった・・・・・・などというように、ものごとの起きた順序が、あまりにも重視されがちなものです。しかしこうした個々の要素よりは、それぞれの文化がいかにそれらを結びつけ、取捨選択していったか、ということのほうが、重要なのです。
文化の独自性とは、すべての人間にほぼ共通の諸問題を解決するその文化独特のやりかた、共通の諸価値観を位置づけていく遠近法にこそあるのです。すべての人間にほぼ共通というのは、人間は例外なく言語、芸術、実証的知識、宗教的信仰、社会政治組織をもっているからですが、それらの要素の割合は、文化によってけっして同一であったためしはありません。