ひょうすんぼ

宮崎の田舎町、都農町についてとその他色々

「遊動論 柳田国男と山人」②

 前回の記事の続きです。

 

 さて、柳田の椎葉村ユートピア論であるが、立論の時点を彼が訪村した明治四十一年七月以降と仮定して考察する。というのは、資料6と7で実証したように、少なくとも十八世紀中葉(寛永四年)における焼畑共有地配分には歴然たる格差があった。(水越村の場合、最高最低の格差一〇二対一、唖谷村の場合、一六二対一)

 ※資料6は「赤にた山、大田山、総之尾山、焼畑覚帳」、資料7は「松尾組焼畑改覚帳 春米山」[1]

  牛島によれば柳田が椎葉を訪問した時には既に格差が存在していたという。協同自助の社会というのは単純な土地の割り振りで判断出来るものではない。実際柳田は家貧にして家族多いものには多めに土地が割り振られていたと述べている。[2]しかしながら1対100を超えるような土地の割り振りが協同自助として正当化され得るのであろうか。そのように考えると「協同自助」の社会は実在しない文字通りのユートピアでしかない。

柄谷は交換様式Dを持つ社会という思考実験の先達として柳田に学ぶことは出来るが、交換様式Aを現に見た者として柳田に学ぶことは出来ないのだ。そして交換様式Aという仮説の立脚基盤の一部を失うことになる。

 

 その収穫は明らかにこれがために費す労力資本を償わないのです。彼らもこれを知らないのではない、知って居てもなおかつ敢えてするのである。その理由は抑も何にあるか、恐らくは米食の習慣の増進、自作米を食うという農民の誇りに感染したのもその原因の一部でありましょう。[3]

 

 我々の祖先の植民力は非常に強盛でありましたがそれにも明白に一つの制限がありました。いかなる山腹にも住む気はある。食物としては粟でも稗でも食うが、ただ神を祭るには是非とも米がなくてはならぬ。[4]

 何故険しい山の斜面でわざわざ米を作るのかという疑問に対し柳田は、神を祭るために必要であったという回答を与えている。しかしこれについては赤坂憲雄から批判が出ている。

 

 大方の日本人=常民にとって、稲はハレの日以外には食することのかなわぬ、支配-被支配のための公的な回路であったことを捨象するわけにはいかない。(中略)たとえみずからは作ることも食すこともないのが現実であれ、租税や年貢として、ほかなるぬ稲を天皇・将軍・領主といった支配階層のもとに運ばなければならなかったのである。稲の強迫はおそらく、法や制度の位相にこそまず存在したのだということを忘却してはならない。[5]

 赤坂の述べるように山の斜面で稲を作る理由が支配―被支配の関係にあるのだとしたら、棚田の存在する椎葉にも支配-被支配の関係が及んでいたということになる。国家と連続する支配―被支配の関係が存在している以上そこにはもはや原初的な遊動性は残存し得ないのではないか。

 

 以上半ば柳田に対する批判も交え展開してきたが、私自身は協同自助の社会の実現を願っている。現代のようにすでに農村が衰退し、農協が支配的になっている世界では柄谷の言うような回帰的な形でしかそれは実現しないが、明治期や戦後はそうではなかった。柳田の主張が通った世界線をつい想像してしまう。もちろん日本史で習うように寄生地主制が安価な労働力と資本を供給し、近代化に大きく貢献したという事実には変わりはなく、現実の社会が一概に悪いともいえない。しかし世界的に急速に格差が拡大している時代において、協同自助の思想は意味あるものなのではないかと思う。

 

[1] 「日本民俗学の源流 -柳田国男椎葉村-」牛島盛光,1993年,岩崎美術社 p178

[2]柳田國男全集4巻、『九州南部地方の民風』」,柳田国男,1989年,筑摩書房

[3] 同上

[4]柳田國男全集5巻、『山民の生活』」,柳田国男,筑摩書房,1989年

[5]「山の精神史 -柳田国男の発生-」赤坂憲雄,1996年,小学館 p322